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その後、姫は死に、藤代家も滅んだ。
藤代家の加護を失ったこの国には妖が蔓延り、人々の生活は一変した。
弥助の生活も一変した。
弥助は何度も何度も妖を追い払った。
人々から石を投げられようと、妖に怪我を負わされようと…何度も…何度も…。
がむしゃらに松明を振りまわし、醜い顔をさらに醜く歪めて威嚇した。
こんなこと何の役にも立たないことは、知っている。
けれど罪滅ぼしのつもりなのだ。
なにか良い行いをしていないと、心が散り散りになってしまいそうだった。
あの微笑みが頭から離れないのだ。
のちに弥助は尊治という名の法師から教えてもらう。
姫が弥助に向けたのは慈悲の心。
そして弥助の中にもその心は存在すると。
これからは一生をかけて、その心を姫に思い出させなければならないのだと……。
***
弥助が目を開けると幼子が立っていた。
ちょうどあの時の弥助と同じ年頃の、けれど自分とは異なる可愛らしい子だ。
子たぬきだと姫は言っていた。
子たぬきは今にも溢れそうな涙の膜を瞳に張り、呆然と弥助を見つめている。
鬼だと思っていた弥助が人だと知ってショックを受けているのだろう。
確かにあの術は老体にこたえた。
弥助はもう歳なのだ。
いつ死んでもおかしくはない。
そしていつ死んでも構わないと思えるほど、弥助の人生は幸福だった。
ただ、一つだけ心残りはある。
弥助の目が覚めたことに気づいた子だぬきがおぼつかない足取りで近づいてくる。
弥助は微笑んだ。
異形の顔にあの日の姫と同じ慈愛の微笑みが浮かんでいることには気付かずに。
弥助が必死に里のものたちを守っていたある日、悪鬼が現れた。
弥助の手には終えない凶悪な鬼だ。
鬼は里の男たちを次々に誘惑し、食らっていった。
その悪鬼の正体はーー勘解由だった。
慈愛に満ちた美しい美貌は、鋭く尖った氷麗の様な冷やかな美貌へと変わっていた。
その怒りに満ちた瞳が恐ろしかった。
暴虐非道な行いの数々に胸を痛めた。
姫の変貌ぶりに困惑した弥助は、せめてもの罪滅ぼしとして、穏やかな心を取り戻させたいと思った。
けれど子供の弥助に有効な手などあるはずもなく、姫の周りをうろついても全く見向きされなかった。
そんなある日、弥助は尊治と出会った。
尊治法師は姫を助けることを約束してくれ、弥助に協力を求めてきた。
時を経たずして山に結界を張りることに成功した尊治法師の高尚さに弥助は驚いた。
その後、己の容貌を恥じている弥助のために、姫から顔を隠すための札を作ってくれた尊治法師は、10年に一度の訪問を約束し去っていった。
いらい姫が心穏やかにあることだけを願い、醜い弥助は顔を隠しながら、年老いてなお姫を守り続けている。
鬼である姫と、人である弥助では、時の流れが異なると尊治法師から聞いていた。
いつか尊治法師が死に、弥助も寿命が尽きるだろう。
その時は尊治法師の意思を継ぐ者たちが、引き継いでくれると言われた。
そしてどうやら今がその時で、この子がその意思を受け継ぐ者のようだ。
弥助の寿命はあとわずかで尽きる。
あとのことは心優しいこの子に託そう。
そう思い弥助は口を開いた。
「…何があったのかはわからない…けれど…姫は虐げられ…傷つき……鬼となった……どうか守ってくれ…姫の平穏を……幸福を……」
嗄れ声で弥助は伝えた。
これでもう、安心だ。
***
鬼じゃない、この人は人間だ。
豆吉は目の前で息も絶え絶えな弥助を見つめ真っ青になっている。
人を、善良な老爺を攻撃してしまった。
本当の鬼は姫だったのだ。
姫の姿は既にない。
姫は悪鬼か、それとも豆吉の印象通り善良なのか、どちらにしろ取り返しのつかないことをしてしまった。
弥助は息も絶え絶えで、姫は既に姿を消している。
溢れ落ちそうな涙を必死に堪えていると、ぼやけた視界の向こうで、弥助が何かを言おうとしているのがわかった。
豆吉は弥助の口に耳を近づけ、聞き逃さぬよう懸命に耳を傾けた。
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