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口のまわりに短い髭を貯えた体格のいい初老の男が、目の前に起こっている悲惨な事故現場に目もくれずに黒く汚れた雪山に突き刺さった赤い物を手に取ると唇に近づけ、勢いよくフッ! と息を吹きかけその物に付着した雪を吹き飛ばした。
「おぉぉぉぉ、なにも壊れていない!」と、目の前にかざしながら嬉しそうに頷いた。
当然この不可解な行動をとる男のことを気に留める者など一人もいない。
観客の目は、ひかれて動かなくなった若い女を囲む人の輪と母親の胸に抱かれながら泣き続ける男の子にくぎ付けになっている。
サイレンのけたたましい音が近づくにつれて、野次馬が歩道に膨らんでいく。
救急車が事故現場に着く頃には、初老の男の姿はどこにもなかった。
まるで群集に溶け込むかのように静かに消滅したのだった。
(完)
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