episode6

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「……顔に出てるよ」  口を尖らせて、佐和さんは終始不満げである。私が大家さんに、扉の修理をお願いしたのが、そんなにも気に入らなかっただろうか。 「なんで本当のこと言わなかったんだよ。蹴り破ったのは俺なのに」 「でも、壊さなかったら、私は平気じゃなかったでしょ」 「じゃあ、あの駒田とかいう先輩に、修理費を出させるべきだ」  佐和さんは、私が詳しい事情を説明せずに、全て自費で修理を頼んだのが、納得できないようだ。 「悪いのは、あのクソ野郎だろ」 「まあ、そうだけど。……でも、私にも悪い部分はあったから」  駒田先輩を許したわけではない。けれど、勘違いさせるような行動をしたのは認めている。ずっと自分を卑下しつづけた結果、つけあがってしまった。 「これを教訓にしようと思うの。自分を嫌いだと言ってばかりだと、こうなるんだって」 「……それでも、やっぱり俺は気に入らないな」  そっと右手を握られる。切りたての前髪が、すこしだけ額から浮いていて可愛らしい。マッシュで前髪を作ったためか、少し幼くなったようだ。 「お詫びと謝罪の一言は言うべきだ。もしも言って来ないなら、警察行きだろ」  クズだからな、とどんどんと口が悪くなっていく彼を、宥めようと口を開いた時である。持っていたスマホが振動した。つい反動で心臓の鼓動が大きくなる。駒田先輩からの電話で追い立てられた事が、思っていたよりもトラウマになっている。しかし、電話の相手はまったく別の人だった。 「もしもし」 「お、繋がった。この間の学芸員の手伝いの件だけど」  教授ののんびりとした口調を聞きつつ、緊張感を覚える。さすがに駒田先輩と2人では気まずい。断ろうとした矢先、意外な返事が返ってきた。 「あれ、他に1人増やせないかな」 「え?」 「駒田が突然、無理になったと連絡が来てね。この際学芸員志望の子じゃなくてもいいから、男手が欲しいんだよ。誰かいない? 丁度暇している、力自慢の男」  さっと彼を見やり、目を凝らす。佐和さんは落ち着かない様子で、口の端をぎゅっと結んでいた。 「分かりました。丁度良い知り合いがいるので、彼を連れて行きますね、教授」  電話が切れたのと同時に、「なんだ、教授か」と横から安堵の声が聞こえる。それから、学芸員の手伝いの話を伝えた。 「うん。分かった」  一切予定を確認せずに承諾したので、不安になる。 「大学とか美容院とか、大丈夫なの?」  それに、監視もあるのに。 「うん」  ただ頷くだけの彼に、本当かと何度も確認してしまう。佐和さんは元々優しかったけれど、さらに拍車がかかって過保護になっている気がする。理玖とは別の種類の、シロップのような甘さに、全然慣れない。 「じゃあ、……お願い」 「もちろん」  こつんと額を寄せてくるので、「よしよし」と頭を撫でた。 「あらあら、仲が良いわねぇ」  大家さんが戻って来たのも気づかず、すぐに彼の体を離した。明らかに前とは違い、色めいた口調で言われてしまい、途端に羞恥心が襲って来る。少し席を外している間に、いちゃつくなんて、と呆れられていないか心配になる。一方で佐和さんは何が不満なのか、名残惜しそうに自分で髪を撫でていた。 「ふふ。お待たせしちゃってごめんね。修理の件だけど、大体1週間ぐらいかかるそうなの。その間は他の場所で、寝泊まりしてもらっても良いかしら?」  ちらりと隣を見る。彼のはち切れそうな笑みに、くすぐったくなる。私は「分かりました」と、当分お隣さんのお世話になる事となった。  大家さんは優しい人なので、私達の関係を悪くは言わなかった。でも、頬を染めて交互に見てくるので、顔が引きつってしまう。やっぱり、他の人には恋人同士に見えているのだ。  私は告白をされていないし、佐和さんからもされていない。  この関係には名前がなく、まだ答えを出すのが怖かった。曖昧な線引きのまま、しばらく考える時間が欲しい。やっと佐和さんが本心を見せてくれたからこそ、全て受け止めたいのだ。  本物の恋人になる前に、確かめる条件。言わずもがな、私が高橋光希という事実である。 「……と、いうわけだから、明日にでも業者の人が来るから、よろしくね」  大家さんの締めくくりの言葉を聞き、我に返る。 「はい、分かりました」  私の代わりに答えたのは、佐和さんだった。
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