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ハスキーな声が、頭上から降って来る。後ろを振り返ってみると、長身の女性が立っていた。さわ、とはこの人の事なのだと遅れて理解し、脳裏に白色の塗料が塗りたくられる。手足が長くて、目鼻立ちがくっきりとしており、肩まで伸びた髪には天使の輪が光っている。薄目の化粧が、艶やかな肌をより際立たせていた。今まで見て来た誰よりも、美しい女性だった。人は本当に綺麗なものを見た時、感動で言葉を失ってしまうのだと、身をもって知った。美術館で素晴らしい絵画を見た時に、ピリピリと電気が走り、鳥肌が立つ感覚に似ていた。果実と甘い花の香りが混ざった匂いが漂い、もう一度その顔を見る。この人が、新しい隣人なのだと悟った。
「えっと、はじめまして」
ついどもってしまうが、今度は目を見て挨拶できた。しかし彼女は、何か引っかかりでも覚えたのか、不思議そうに首を傾げている。その反応が、一体何を示していたのか、この時はまだ分からなかった。どちらにせよ、彼女は終始にこやかで、愛想が良かった。
「はじめまして、佐和です」
本当に綺麗な人だなあ、とつい見惚れてしまう。失礼だとは知りつつ、隅々までじっくりと眺めていたい。氷のように冷たく震えた心を癒してくれる、そんな力があるように思えた。
「ちょっと。あなたは誰かって聞いてるんだけど。無視しないでよ」
子猫のような少女が、佐和さんの腕を絡めとり、それから私をじっと睨む。
「あ、私は隣の部屋に住んでる……」
「嘘。佐和のストーカーじゃないの?」
「いやいや、そんな怪しい者では……」
すると少女の目が更に吊り上がった。
「じゃあ、そのヌンチャクは何よ」
指さす先に、鈴木のおばちゃんから譲ってもらったヌンチャクがある。あぁ、そうだったかと、ぶらりと目の前に垂らした。
「これは、さっき貰って……」
「誰がそんな物あげるのよ。第一、不自然過ぎるわ」
「ヌンチャク一つで、そんなに怒らなくても……」
負け腰の私にも、彼女は容赦ない。
「ヌンチャク一つで怪しいから怒ってるの!」
すると佐和さんが突然吹き出し、ケラケラと笑い始めた。手をオットセイのように2回叩き、それから優しく微笑む。
「初対面とは思えないな。まるで、昔からの友達みたいだ」
何を呑気な事を言っているのだ。あなたの連れのせいで、私はとんだ言いがかりをつけられているのに。
「すみません、高橋さん。…ほら、理玖も敏感になり過ぎだよ」
その口調は、まるで恋人を宥めるような空気感があり、もしやと勘繰ってしまう。女子同士仲が良い親友かと思いきや、2人は一線を超えた仲なのかもしれない。特殊なカップルが、愛を育む為に引っ越してきたのか。佐和さんは、どこか逞しく自立した雰囲気を持っている。対する理玖という少女は、小柄で守ってあげたくなるような見た目をしていた。
「ほら、行こう」
失礼しました、と頭を下げられ、同時にお辞儀をする。仲睦まじげな2人の背中を見送ったタイミングで、ふと違和感に気がついた。どうして佐和さんは、私の苗字を知っていたのだろう。きっと表札を見たに違いない、と簡単に納得してしまったが、名札の部分は剥がれ落ちていた。いつ剥がれたのかは覚えていない。
春一番なのか、強い風が吹き荒れて、段ボールが音を立ててめくれる。白い陶器にはヒビが入っており、それが引っ越しの荷物ではなく、不燃ごみだったのだと、この時初めて知った。
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