episode1

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 新しい隣人である佐和さんと理玖さんは、どうやら本当に恋人同士のようだった。住んでいるのは佐和さんだけで、理玖さんは日が暮れる直前に、夕飯の食材を手にやって来る。それから一晩過ごして朝方に帰って行くのだ。いわゆる、半同棲生活である。二人共年齢は私と同じか、多分年下だろう。さほど変わりはない。また、佐和さんはお酒が苦手なようで、反対に理玖さんは酒豪だった、梅酒やカクテルが大好きで、スーパーで毎日買って来るのだ。酔った時には、子供のように甘えん坊になり、佐和さんにキスをねだる。生クリームの中に、グラニュー糖を加えるような、胃もたれする声色。それを佐和さんが外側から優しく包み込むのである。2人の熱々ぶりは、日に日に増しているような気がした。  どうして私が、こんなにもプライベートな事情を知っているのか。決して、ストーカーしたわけではない。他人の色恋沙汰になんて、深入りするつもりはない。けれど、ここに住んでいる限りは、誤解されても仕方がないだろう。薄い壁を通して、全て筒抜けなのだ。きっと大家さんから、このアパートの欠陥を聞かされていないのだな、と勝手な結論に至る。以前の隣人とは正反対で、2人の生活音は、嫌というほど耳に入ってきた。寝る時だって、目を閉じると理玖さんの甘い声が聞こえてくるのだ。その日から、就寝前には必ずイヤホンで音楽を聴くようになった。Youtubeで探してきた、睡眠用BGMを聴くのが、既に日課になっている。時々外出前に鼻歌で歌えるほどになっていた。 「あ、ヌンチャク女」  酷いあだ名だなぁ、と呆れが勝り、苛立ちを覚えることもない。早朝から扉の前で鉢合わせた私に、わざとらしいため息を吐いた。 「おはようございます」 「おはようございます、じゃないわよ。どうして、毎日毎日同じ時間に会うわけ?」 「私もこの時間に用事があるんです」 「佐和の尾行?」 「大学の講義です」 「ふーん。わざと時間を合わせて、嫌がらせしているのかと思ったわ」  最悪の初対面を迎えて以来、彼女には嫌われている。いつもの私なら、「言いがかりをつけないで下さい」と歯向かうけれど、今はその気力もない。自分の心の整理も出来ていないのに、他人を怒る気力はなかった。けれど、やられっぱなしだと癪なので、一言だけ言っておく。 「あの、一つだけ」 「何よ」 「エッチする時は、窓ぐらい閉めて下さい」  すると、理玖さんの吊り上がった目元が、徐々に赤く染まっていく、耳まで熟れたトマトのようになった。 「やっぱり、変態ストーカーね‼」  彼女が叫んだタイミングで、佐和さんが気づいて玄関が開く。彼と目が合う前に、その場を離れた。朝から見るには、刺激が強すぎる。あの美しい彫刻のような顔を、心の中に留めておく。彼のように、全ての比率が完璧な人間を、これまで見た事がない。偉大な画家の作品を、長蛇の列に並んだ末に、ようやく拝見したかのような達成感がある。あの横顔を見れただけで満足だった。  隣人2人に対して、色々思う事があっても、嫌悪感はなかった。むしろ、羨ましいとさえ感じているのである。お互いがお互いを必要とし、そして毎日一緒にいられる。これまで彼氏が出来たことがなく、恋い焦がれた事もない身としては、実に興味深い関係だ。同性だと不便な事や、嫌な目で見られる事もあるかもしれない。でも、2人の世界には、ヒビ一つ入ったりしないだろう。あの白い陶器とは違う固さがある。理玖さんは系統が違えども、女性らしく可愛らしい。美人な2人はお似合いだ。やはり美人だと、人生は全然違って来る。いまだに未練がましく容姿にこだわる自分に、嫌悪感が募っていた。羨ましい。好きになって貰える事が。美人で愛される彼らの事が。
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