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episode2
「あれ、どうしたんですか。先輩」
研究室に入って、つい第一声で失礼な事を口走ってしまう。けれど駒田先輩は気にせず、自慢げにもみあげを撫でつけた。
「最近できた美容院に行ってきたんだよ。いやあ、イメチェンってやつ? 髪を変えると、気持ちも変わって来るよなぁ」
「光希ちゃん、気にしないで。駒田君、彼女と別れて迷走しているのよ」
宮瀬先輩は、辛辣で鋭い言葉選びを得意としているが、決して悪意があるわけではない。彼女の素直で棘のある物言いは、親しみが増して行くごとに愛着が湧く。今の言葉も、駒田先輩への軽いジョークだった。
「迷走じゃなくて、新境地への第一歩だよ」
満足げな彼を、まるで鑑定人の如く眺めてみる。いつも寝癖を直しただけの地毛だったので、少しツンとする香りのワックスは、駒田先輩のイメージをガラリと変えていた。彼の子犬のように人懐っこい顔に、とてもよく似合っている。
「先輩、カッコいいと思いますよ」
特別な他意があったわけではなく、単純な感想を言っただけなのに、先輩は分かりやすく羞恥心を見せた。あまりにうぶな反応なので、私まで照れ臭くなる。
「そんな簡単に言っちゃだめよ、光希ちゃん。駒田君はすぐ恋に恋する人だから」
それを聞いて不満げに、駒田先輩は声を上げる。
「人を軽い人間みたいに言うなよ。俺は、高橋の素直な心に感動しただけだ」
2人のやりとりを遠目に見つつ、ぼんやりと窓の外を眺めてみる。随分と人が多いなぁと思うと、サークルの勧誘が本格的に始まったようだ。入学式が1週間前に終わり、本当は私のような大学院生も出席すべきだったけれど、無断で欠席した。家を出た時は行こうとしたのだ。けれど、両親の顔が浮かび、引き返してしまったのである。ただただ、あの場にいたくなかった。
「高橋もイメチェンしたくなったら、美容院に行ってみなよ。紹介割引と学割を使えば、けっこうお得になるからさ」
そう言って駒田先輩はクーポン券をくれる。写真から見るに、おしゃれで高級感のある外観だ。私には縁のない場所だな、と思いつつ好意と共に受け取った。
「あのさ、光希ちゃん」
宮瀬先輩が、私にだけ聞こえる声で問う。
「親御さんとは、和解出来た?」
どくんと心臓がうねり、体が硬直してしまう。筋肉が固まったみたいに動かないので、否定も肯定も出来なかった。すると何かを察したように、ふっと軽く笑われる。
「今日の放課後、一緒に美術館でも行かない?」
「……え?」
「美術館に併設されたカフェがね、すごく良い感じだって友達から教えて貰ったの。そこでじっくりと話しましょうよ。院生仲間入りのお祝いも兼ねてって事で。もちろん私の奢りよ」
「おっ、歓迎会か。俺も行きたいな」
「あんたは来なくて良いのよ」
「えー、なんでだよ」
「髪型を気にする暇があるのなら、その空気の読めない頭をどうにかしなさいよ」
大学院に進むのを後押ししてくれたのは、宮瀬先輩だった。親が反対している事。将来に不安がある事。そして今の自分に自信がない事。それらを打ち明けた唯一の相手である。だから、今も心配してくれているのだ。宮瀬先輩は適度な距離感を保ちつつ、いつも気に掛けてくれていた。先輩はただ選択肢の幅を広げてくれただけで、その後大学院に行くと決めたのは、だれでもない私自身である。たとえ後悔したとしても、先輩は悪くない。そう思いつつ、今の私にとっては頼もしい味方だった。
「ありがとうございます」
「カフェで歓迎会かぁ。真面目だねぇ。派手なサークルなんかは、居酒屋で飲んで叫んで遊びまくるって話だけどな。未成年のくせに、調子乗って一気飲みして、救急車に運ばれたって、去年噂で聞いたよ」
「へぇ。まだそんなダサい事やってる人いるんだ」
「まあ、俺達みたいな真面目な日陰者には、縁も無い話だよ」
「混ざりたいなら、あんた一人行けば良いじゃない。私は光希ちゃんと、楽しくお茶してくるから」
「だーかーらー。俺が混ざりたいのは、高橋の歓迎会なの!」
廊下の方から声が聞こえる。綺麗な恰好をした男性が、1年生に話しかけていた。1年生とは思えぬ垢抜けた容姿で、手に持っている履修登録票がなければ、一目で判断がつかないだろう。どうすれば自分が可愛く映るか熟知したような、そんな立ち振る舞いに溜息が漏れる。彼女なら自分と釣り合う。そう確信して、きっと男性は声を掛けたに違いない。サークルの勧誘文句を言いつつも、鼻の下が伸びていた。駒田先輩が言った通り、私には関係ない。すぐに視線を反らし、宮瀬先輩と目的地への地図を確認した。
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