episode1

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ただいま、と言っても誰も出迎えはしてくれなかった。日焼けした畳にそっと足先を載せ、居間の中へと顔を出す。 「……ただいま、父さん。母さん」  こめかみとつむじ辺りに白い毛が生えた父。けれど毛根が強くふさふさの髪は衰えておらず、眉間の深い皺も相変わらずだ。母は膝を僅かに浮かせた状態で、目玉を左右に動かしている。せっかちで落ち着きのない性格は今も健在だ。そして血の気の多い性格も。 「光希、それより言う事があるでしょう」  久し振りの再会なんだから、挨拶を初めにしても良いじゃないか。つい口が出そうになるのを、ぐっと我慢する。ちゃぶ台の前で行儀よく足を揃え、そして深々と頭を下げた。まるで、あの転校してきた少年のように。 「ごめんなさい、父さん。母さん」  すると母はまくし立てるようにして、勢いよく息を吸い込んだ。 「どうして就活を辞めたの。あんた、ずっとインターン行ったり講座を受けたり、色々と準備していたじゃない」 「……」 「なんとか言ったらどうなの」 「院に行きたいと思って」 「大学院? 研究者にでもなるつもり?」  その言葉には、小さな軽蔑の色が窺え、不快感を覚える。母が自らの物差しで測ったところ、またくだらない反抗期が始まったのかと、落胆したのかもしれない。仕方のないことだった。すると口一文字で黙っていた父が、絡んだ痰を切るように咳払いをし、低く響く声を発した。 「院に言って、何がしたいんだ」 「……」 「どうしてすぐに答えない。何か後ろめたい事でもあるのか」  母は既に我慢の限界らしく、畳をしきりに叩き、「早く言いなさい」という無言の圧を掛けて来た。  言ったら絶対に反対される。でも、反対される覚悟でここに来たのだ。乾いた唇を開くと、ビリっと紙が破けたような音がした。
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