episode5

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 貧血のせいで目眩を覚えた。もう春は終わったのか、と散った桜の木を見てから思い出す。季節の流れをわすれてしまう程に、最近は忙しない気がする。余裕を取り戻そうと、頭の中に流れるメロディーを歌ってみた。  君に出会い、君を愛し、そして手放した。  たったワンフレーズの歌詞が、塵のように消える。この歌詞も嘘なのだろうかと、地面に転がっていた石を蹴った。  やはり、綺麗なものは遠くから見るに尽きる。Ly-ricの人たちは、舞台の上では華があり、アイドルそのものだった。けれど、いざ真正面から向き合ってしまうと、夢が冷めて朽ちていく。嫌悪感を覚えずにはいられなかった。けれど、ある矛盾に気がつく。私はあれから、佐和さんに限りなく近づいている。近づいているけれど、汚いと思った事は全くない。彼はいつだって綺麗だ。距離を置かずとも、感情を保てることを、知ってしまったのである。  ブツっと音が途切れる。意識的な問題ではなく、物理的な音が消えたのだ。そしてイヤホンに手を伸ばすけれど、無くなっている。もしや落としたかと目をあげると、まるで漆のように澄んだ瞳と目が合った。ブルーの髪が、フードの隙間から見える。ミルクティーの時とは違い、どこか冷たい印象だった。けれど、そんな呑気な感想を述べている場合ではない。突然現れた彼に、さっと後ずさった。 「佐和さ……」 「静かに」  手で口を塞がれる。前方からの人が通り過ぎたのを確認し、彼の手が離れた。よく見ると、私のイヤホンを耳に着けている。ぼうっとしている間に奪われたのか。どんないたずらかと、笑みを零しそうになる。しかし、今私は崖の上で窮地に立たされているのだと思い知った。私のイヤホンから流れているのは、Lyricの曲である。すでに言い訳のタイミングを失っていた。 「いつから?」  彼の声は優しい。 「いつから、Lyricの曲を聴いてるの?」  きっとこの曲の音源は、世の中に存在しない。佐和さんを含んだ、Lyricの関係者以外は。それを私が持っている理由を、彼は穏便に聞き出そうとしている。 「蜜柑を、くれた日から」 「あぁ、あの時……」  落胆とも言えるし、独り言の延長とも受け取れる。怒ったのかと不安だったが、微笑みの中に熱はなかった。 「ちょっと、こっちに来て」  手を掴まれて、既視感を覚える。偶然だろうか。この道は、いつの日か佐和さんと共に神社へ行くときに使った所だ。南に歩き、公園の角を曲がれば……。  しかし、握られた手が汗ばんでいる事に気がつく。どれだけ平静を装っていても、彼は焦っていたのだ。フードを目深にかぶり、左右を見回している。誰かに追いかけられているのか、ストーカーの存在を考えた。 「こっち」  指に力を入れ、今度は決しては離さないように強く握る。 「こっち、近道だから」  私は佐和さんの側にいたい。たとえ隣人にしか過ぎない存在でも。元いじめっ子の私に、そんな権利なんてないとしても。恋をしてしまったのは、受け入れるしかない。
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