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神社の境内に入ると、息を吹き返したように、佐和さんが長いため息を吐いた。本殿の裏側に周り、そっと彼の横顔を見やる。もう焦りの色はなかった。
「誰かに追いかけられているの?」
「そうじゃない。……でも、監視されてて」
すぐに、奏多さんの電話を思い出す。彼の近辺を全て調べろと言っていた。
「だから大学も家も、居心地が悪くてね」
「ごめんなさい」
「どうして高橋さんが謝るの?」
「私が余計な事をしたから」
佐和さんの耳には、どこまで情報が入っているのだろう。私がした事を知っているのなら、なぜ穏やかな顔でいられるのだ。
「余計じゃないよ。でも、もうやめて欲しい」
やめるって、何を?
「やめるって、何を?」
思った事が、すぐに口を突いて出る。
「佐和さんのCDを、勝手に持ち帰った事? 奏多さんと話をした事?…今こうして、手を握っている事?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何? 私が隣に住んでいる事?」
「……違うよ」
これでは単なる逆切れだ。佐和さんが好きだと気づいた途端に、傲慢な自分が顔を出す。小学生の時と、なにも変わっていない。気に入らない事があれば、すぐに否定して排除しようともがく。間違いだらけの自分が暴れだす。私が悪いのに。被害者のような顔をして泣いてしまう。本当に辛くて泣きたいのは、佐和さんの方なのに。
「……佐和さんが、隣に引っ越してきたのがいけないの。ずっと静かに暮らしていたのに、あなたのせいで……」
「……ごめん」
「あのアパートの壁って、すごく薄いから聞こえてくるの。……理玖さんとの声も、エッチの時の声も。……それと、あなたが吐いている音も」
そして握っていた手を裏返した。手の甲の部分の赤い点。それは以前よりも赤黒く悪化していた。
「それ、吐きだこでしょ?」
佐和さんは、大きく目を見開いたまま固まった。こんな顔を見るのは初めてだった。イヤホンをしないと、私まで息苦しくなる。聞こえないフリをしても、聞かなかったフリは出来なかった。
「そんなに苦しそうなのに、どうして平気な顔をしているの?」
隣からずっと聞こえいた騒音については、理玖が来なくなった途端、まったく聞こえなくなっていた。以前の隣人と同じぐらい、生活音が無かったのである。しかし、定期的に吐く音は続いていた。咳を切るように、あの野太い声。嘔吐しているのだとすぐに分かった。ただ酒に酔ったからではない。意図的に吐いているんだと知り、その苦しみを壁越しに聞いていた。
「ごめん」
謝って欲しいのではない。けれど思えば、私達はいつも謝ってばかりだった。敬語をなくしたところで、決してその一線を越えられない。佐和さんの手が離れようとする。その手を止めようと、つい爪を立ててしまった。
「佐和さん。前に、言ったよね」
無意識に私は笑っていた。何がそんなにも可笑しいのだろう。
「下心があったって。自重しないって」
「……」
「びっくりしたけれど、あの時だけだった。本音を言ってくれたのは。……教えてよ。佐和さんが、何を考えているのか」
ようやく分かった。可笑しかったのではない。ただ、悲しいのだ。自分の感情の正体を理解した分、少しは私自身を受け入れられるようになった。私の間違った意見なんて、全て受け入れなくていい。全て否定していい。だから、あなたの正しい答えを教えて欲しい。綺麗なあなたの。
「佐和さんは綺麗だから」
すると、急に気温が下がったように寒気を覚える。彼の手が強引に解かれ、私の爪痕が僅かに残った。赤い線がすうっと伸びている。
「綺麗って……なに?」
「え?」
「俺の顔がってこと?」
「もちろん。でも、それだけじゃなくて……」
「いや、顔以外なにもないよ」
違う。そうじゃない。けれど、そう言ってみたところで、私の言葉には何の力もない事を思いだした。女子より美人であれ。佐和さんの目は笑っていなかった。
「他になにもないなら、見た目を気にするしかないんだよ」
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