episode5

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 バイトの面せるが終わった後の事である。イヤホンがなくては、夜に寝付けないので、電気屋さんに立ち寄る事にした。店内に入り、機能性や色などを考慮しつつ、30分ぐらいで買い物を済ませた。そこで違和感に気づく。背中にピリピリと痛みを感じ、すぐに後ろを振り返った。誰もいない。けれど、視線を感じる。私なんかストーカーされるはずがないと、腹を括っていた。けれど、奏多さんとの一件があり、警戒心が研ぎ澄まされたようだ。もしや、佐和さんとの接触を目撃され、口封じに来たのだろうか。監視されるのは、気分のいいものではない。とにかく早く家に帰ろうと思い、裏道を使いつつ、走って逃げた。  玄関に鍵を差し込む直前、ふと隣の玄関を見やる。明かりがついていないので、留守だろうか。意図的に待たないと、彼に会う事もない。昨日の喧嘩が尾を引き、目頭が熱くなる。どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。絶対に嫌われてしまった。ここまで嘘を吐き続け、楽な道を選んだ報いだ。  付き合いたいとか、独り占めしたいとか、そんな事は望まない。でも、隣にいさせて欲しい。どこにもいかないで欲しい。声にならない声を押し殺し、そっと鍵穴に触れる。金属と金属が触れようとした時、唐突にやって来た。ワックスのツンとした香り。刺激臭のような、少し苦手な匂い。そうだった、と今更ながらに思い出していた。  私は、先輩に食事の断りのメッセージを入れたっけ。一方的であったとはいえ、予約までしてくれたのに。後ろを振り返ると、彼はまるで壁のように立っていた。 「せ、……せんぱい?」  どうしてここに、と尋ねる前に肩を掴まれる。あまりの痛みに声が出た。 「なんだその顔は。家に迎えに行くって、言ったじゃないか」  引きつる笑顔が怖い。迫って来る顔を、押しのけていた。 「ごめんなさい、行けないです」 「お前、いい加減にしろよ」  瞳は充血し、目元が赤く染まっている。強烈なお酒の香りがした。 「駒田先輩、落ち着いて下さい。いつもの正気に戻って下さい。こんな真似…」 「いつもの俺ってなんだよ。お前が俺の、何を知っているんだよ」  佐和さんの面影が重なる。  次の瞬間、体ごと抱き寄せられ、首まで鳥肌が立つ。 「俺は高橋が好きなんだ」  この人は何を言っているのだ。どうして先輩が、私を好きになるのだ。けれど今は、抱きしめられている事に、激しい嫌悪感がする。やめて、と声に出しても届かない。唇が鎖骨に触れた時、身の危険を感じた。  逃げなければ。脳では命令が響いているのに、体は動いてくれない。先輩は、こんなにも力が強く、恐ろしかっただろうか。すると、チャリンと金物がなる。落ちた鍵を見て、さらに血の気が引いて行く。先輩は鍵を拾って鍵穴にさし、玄関を開く。押し倒される形で中に入ると、扉がガチャリと閉まった。絶望の音が、耳の奥で響く。叫び声を上げようと息を吸うが、大きな手で塞がれてしまう。冷たくて硬い手だ。引き剥がそうともがくと、彼は悲しい声を漏らした。 「なんでそんなに嫌がるんだよ。まだ、俺を弄んでいるのか?」  首を振ると、さらに強く抱きしめられる。目尻から涙が伝い、必死に足を動かした。 「やめてください‼」  やっと出た否定の声も、すでに手遅れだった。駒田先輩の耳には届かない。 「そろそろ正直に言ってくれ。お前も俺が、好きなんだよな」 「違います。私は一度も思った事なんて……」 「嘘をつくな‼ 酒をおごってやった日、言っていたじゃないか。俺を追いかけて院に入ったって」 「いや、それは……」 「俺が髪を切った時、かっこいいって言ったよな。俺の家に来るのだって、まんざらでもなさそうだったじゃないか」  違う。すべて駒田先輩の勘違いだ。どれだけ否定してみても、彼は信じてくれなかった。 「お前が素直になるまで、男らしく待とうって思ったんだ。……でも我慢にも限度がある。人の恋心を弄ぶのも、大概にしろよ」  その時だった。先輩の手が下着に伸びる直前で、ある物を思い出す。この先二度と使わないだろうと、下駄箱に吊るしてあったもの。今朝目にするまで、すっかり存在を忘れていた。靴滑りと共に、まるでアンティークのように飾っている。映画で見たとおりに。彼がもたついている間に。ジーンズのお陰で動きやすい。指先を伸ばし、すぐにヌンチャクを絡めとった。  上から下へと振り下ろし、背中へと打ち付ける。駒田先輩は苦し気な声を上げ、ようやく体が離れた。急いで後ろに逃げてから、くるりと向きを変える。スマホは鞄の中で、探すのには時間がかかる。固定電話を取り、すぐに警察を呼ぼうと試みた。しかし、ヌンチャクを投げつけたぐらいでは、大した時間稼ぎができない。先輩は痛がりつつもすぐに起き上がり、私に飛びついてきた。ヌンチャクをもう一度振り上げたけれど、今度は汗で手が滑ってしまい、壁へと放り投げてしまった。ゴン、と固い音が鳴り、同時に腰が抜けてしまう。  もう無理だ。喉の奥が乾き、ヒリヒリと痛みが走る。 「誰か……助けて」
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