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気を失いかけた時、今度はヌンチャクよりも鋭い音が鳴る。天と地がひっくり返ったような衝撃に、流れる涙も泊った。砂ぼこりが舞い、玄関の靴も吹き飛んでいる。コロコロと床に転がるのを傍観していると、スウェット姿の男性が、壊れた扉の前に立っていた。なぎ倒された扉は、すでにただの木の板である。駒田先輩も、動きを止めて口をパクパクさせた。
「だ、誰だよ。お前」
私も同じ事を言いかけた。この人は誰だろう。襟足の短い黒髪に、黒のマスク。足が長くてすらりとしており、ただ立っているだけで威圧感がある。ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきたかと思うと、駒田先輩の頬を、何の躊躇もなく殴ったのである。ゴリッと歯の割れるような音がした。
「それは、こっちのセリフだけど」
指先が冷たくなる。そして心臓の音が大きくなる。さっきまで恐怖に震えていたのに、彼のハスキーな声を聞いた途端、安堵の溜息が漏れた。力なく手を伸ばし、その背中に縋りついた。
「佐和さん」
絹のように美しかった長い髪は、バッサリと切られ、短くなった毛先が揺れている。マスクを取ったその顔は、怒りに震えていた。玄関からの風と共に、佐和さんの力強い腕に抱き寄せられる。香水の匂いがしない。そのままの彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、そして嗚咽を漏らした。
「……高橋さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、目尻を指で拭ってくれる。先輩とは違い、痛みも何もない。安心したはずなのに、体の震えはまだ止まらなかった。
「おい、お前。高橋のなんだよ」
先輩の問いかけに、佐和さんは答えない。代わりに拳を握りしめ、さらに殴ろうとしてきたために、尻尾を巻いて逃げて行った。その後を追いかけようとするけれど、私は止めていた。
「行かないで」
「でも、あいつ……」
「良いの。ここにいて」
震えがずっと止まらない。最近はとくに、怖い思いを続けて経験したせいか、キャパオーバーしてしまったのだろう。佐和さんはずっと怖い顔をしていたけれど、私を見ると解けていく。頭を撫で、そして温かい手で握ってくれた。彼がいてくれるだけで、心が溶けていくようだ。
「来てくれて、ありがとう。本当に……本当に…」
嬉しい筈なのに、涙が止まらない。しゃっくりをあげつつ、何度も感謝の言葉を述べた。そして彼は、不安げに覗き込んで来る。
「なにもされてない?」
「うん。抱きしめられたけど、他には何も」
間一髪だった、と付け加えると、佐和さんの綺麗な顔に皺が寄る。怒っているのか、と尋ねる前に、名前を呼ばれた。
「みつき」
全身の力が抜けてしまう。柔らかい唇が重ねられ、頭が真っ白になった。息の仕方を忘れ、呼吸困難になると、彼の唇が離れる。そしてまた、ついばむようなキスをされた。
どうして、私の名前を知っているのだ。
けれど、この疑問を今は聞きたくなかった。腕を首に回し、そっと襟足を撫でる。女性のような長い髪は、もうない。けれど絶えず美しい。
「もう少し、ここにいて」
「うん」
「もう少し、もう少し……」
離れないようにしがみつく。どこにも行かないように。消えてしまわないように。張っていた糸が切れたように、子供のように甘えてしまう。そして佐和さんも、私の手を離さずに握ってくれている。ようやく涙と震えが止まった頃には、既に夜になっていた。
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