エピローグ

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 それから月日が流れ、事務所を退所した後である。俺自身が何であるのかと思いだそうとした時、最初に浮かんだのが高橋光希のことだった。あの子にもう一度会えば、変われるだろうか。本当の自分を思い出せるだろうか。  順当にいけば、彼女はすでに大学4年生。就職も決まり、今頃準備をしているに違いない。ならばもう、この町にはもういないだろう。ツテもなく簡単には会えないか、と不動産の看板を見つめている時だった。 「あら、家を探しているの?  中年ぐらいの女性が声を掛けて来た。人懐っこい目が、上から下まで俺を見る。その好奇の目にも、慣れていた。 「私、ここの主人と顔見知りだから、いい物件がないか聞いてきましょうか?」 「いえいえ。親切にありがとうございます」  高橋光希を探すのは止めよう。あまりにも無謀で、見つけられる可能性が低い。彼女の事だから、俺を忘れて今でも女王様気分に浸っているだろう。 「大学近辺の物件を探しているので、この辺りではないんです」 「あら、大学生なの。どこの大学?」  初対面で随分と馴れ馴れしいな、と思いつつ、素直に大学名を言う。すると女性は手を叩いて喜んだ。 「あらあら、みつきちゃんと同じ大学じゃないの。すごい偶然ねぇ」  本当に、すごい偶然である。驚きが隠せず、心臓の鼓動が早まる。「そうなんですか」と何でもないフリをし、変に思われないよう慎重に話を進めた。 「その方は、どこのアパートに住んでいるんですか? どうせ引っ越すなら、同じ大学の人がいる場所だと、安心なので」  すると、女性の眉間に皺が寄る。さすがに不自然過ぎたかと、焦燥感に駆られた。しかし彼女の目には、涙が浮かんだのである。 「良かったわぁ。みつきちゃんに、あなたみたいな素敵な隣人が出来るなんて」  本当に綺麗な子ねぇ。と褒められる。この人も俺を女と間違えているのだな、といつも通りの反応に頷いた。 「ありがとうございます」  もしも高橋光希に会ったら、何と声を掛けようか。知らない人のフリをするか、昔の記憶を思い出させるか。しかし俺の引っ越しを反対する者が1人。理玖だった。 「何よそれ、私聞いてないんだけど」  電話越しでも分かる怒りの声に、耳を塞ぎたくなる。本当は彼女が機嫌の良い日に、打ち明けるつもりだった。急な報告だった為に、宥めるのに1時間。スマホを耳に近づけるのも疲れたので、途中からスピーカーに切り替えた。 「まぁ、引っ越しが終わったら、住所教えるから」 「嫌だ。私も佐和と住みたい。同棲したい」  それは無理だと伝えてから、電話を切る。  一緒に生活を始めると、相手に別の一面を見せる事になる。理玖が好きな俺は、中性的で誰にでも愛想がいい佐和柚である。筋肉質になった体を鏡で見る度に震え、薬を飲んだり、トイレで嘔吐している俺ではない。引っ越しは俺一人ですることになった。  「じゃ、ここの部屋ね」 「何から何までありがとうございます。えーっと」 「鈴木よ。後は大家さんに話をつければ終わりだから」  面倒見の良い鈴木さんは、そうして足早に去って行った。  表札を設置する前に、ふと隣の部屋を見る。  引っ越しの挨拶をしてみるか、とインターホンの前に立つ。しかしそこで急に、俺の行いは間違っているのではないか、と自問自答が始まった。彼女に再会して、嫌がらせでもするのか。いじめの復讐でもするのか。10年も前の話である。既に時効ではないだろうか。  すると、内側から扉が開いたので、咄嗟に隠れた。中から出てきた彼女を見て、愕然とする。  随分と雰囲気が変わっていた。表現しにくいが、普通の人になっていた。ゴミ出しで大きな袋を持っており、階段を下りていく。その姿をぼんやりと、小学生時代と重ねてみるが、やはり一致しない。けれど唯一、女子トイレで泣いていた彼女の中には、どことなく面影があった。あの子は、10年の間に、何があったのだろうか。  結局、インターホンは押さず、ひっそりと隣で暮らすことにした。静かでとても心地が良い。誰の目も気にしなくていいと思うと、ずっと嘔吐していた日々が消えていく。自分だけを見つめる空間である。 「……やっぱり、怪しい」  カフェでコーヒーを飲んでいると、唐突に理玖が言った。 「もしかして佐和、ストーカー被害でも受けているの?」 「え?」 「だって、急にアパート引っ越すと言い出したかと思ったら、一歩も家から出ないし、デートにも行かないし」  それは違う。単純にあの家が落ち着くのだ。 「誤解だよ」 「じゃあ、一緒に住ませて」 「無理」  すると理玖の目に涙が浮かぶ。ウソ泣きが得意なのは知っていたが、公共の場でされてしまうと、俺が折れるしかない。 「分かったよ」 「本当?」 「でもその前に、家の中の整理をするから。実家から必要な物を、今度業者に頼んで持って来て貰うから、その後に理玖も引っ越してきなよ」 「やった! それっていつ頃になる?」 「うーん。3月ごろ?」 「それって一番繁盛期じゃん。もっと早くできないの?」  文句を言いつつ喜ぶ彼女を、ぼんやりと見つめる。  結局俺は約束を破り、3月には同棲ではなく半同棲が始まった。  理玖の前で良い顔をするのも、そろそろ限界だ。いつかは別れ話をしなければならない。彼女はアイドル時代の俺を好きなだけ。あれは、すべて嘘でしかない。 「さわぁ、荷物重いから、持ってよぉ」  理玖の甘えた声に呼ばれ、荷物を取りに行く。そのときだった。高橋光希と10年越しに再会したのは。まさか、こんな形で顔を合わせる事になろうとは。息を吸い、軽く深呼吸をする。これが間違いかは分からない。だが、もう迷いはない。 「はいはい。今行くから」  甘くて酔いそうな香りが消え、新鮮でさわやかな香りがした。
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