episode1

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そして持っていたショルダーバッグを振り回し、母の顔に叩きつけた。頭の中は真っ白だった。 「うるさい‼ 母さんも父さんも大っ嫌い‼」  そのまま勢いよく玄関から飛び出し、恰好がつかないからと走り出す。けれどすぐに息切れして、右隣の家へと駆けこんだ。 「あら、光希ちゃんどうしたの?」  鈴木のおばちゃんは、10年経っても何も変わらない。歳を取らないし、遊びに来る度に蜜柑をくれるし、私に優しくしてくれる。もう涙が溢れて止まらなかった。 「おばちゃーーん」 「なあに?」 「千円ちょうだい――‼」 「あらあら、ついにせびりに来たの」  親の前では格好つけたのに、全部台無しだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、しゃっくりが止まらない。手の甲でごしごしと乱暴に擦っていると、爽やかな柔軟剤の香りがやって来る。そのふわふわのハンカチを受け取り、また声を上げて泣いた。  3月になっても、鈴木のおばちゃんの家にはこたつがある。長くて5月まで置いておくらしいが、その理由は教えてくれない。多分、大した理由ではない。どちらにせよ、机の上には蜜柑が設置されていて、こたつも温めてくれたので、ありがたく入らせてもらった。蜜柑の皮をトルネードのようにくるくると剥いてから、一房を口の中へと放り込んだ。酸味と甘みが同時にやって来て、懐かしい味が広がる。喉が潤ったところで、何があったのかゆっくりと話した。 「……でね、鞄を投げて出て来ちゃったから、家に帰るお金も無いの」  おばちゃんは絶対に怒らないし、同情もしない。淡々としていて、時々ちゃんと聞いているのか不安になるけれど、愚痴や相談は、とりあえず鈴木のおばちゃんにしている。答えを求めていない話をする時にうってつけなのだ。まるで朗読に耳を澄ませるように、コクコクと頷いていた。 「…そう。じゃあ、このヌンチャクを一緒に持って行ってくれる? 置き場がなくて困っているの」  こたつから取り出した黒々とした鉄の塊に、思わず聞き返してしまう。 「ヌンチャク? こんなのどこで買ったの?」 「中国映画に最近ハマってね。武術を習得したいと思って、通販で買ったのよ。ほら、これも付属でついて来て」  今度は中国武術入門書を、こたつの中から取り出す。もしやこたつの中は、四次元ポケットなのではないかと、中を覗いてみたくなるが、その前に机に千円札を出されたので、ありがたく受け取った。 「でも、ヌンチャクないと困らない?」 「もう飽きちゃったのよ。自分でやるのと映画では大違いね」  至極当然のことを口にして、ちろりと舌を出す。おばちゃんのお茶目で飽き性なところは相変わらずだ。 「ありがとう」 「ふふ、光希ちゃんは可愛いわねぇ」 「そんなに褒めてくれるのは、おばちゃんだけだよ。お世辞でも嬉しい。……下宿先でも、おばちゃんがお隣さんなら良かったのに」 「あら。お隣さんと、トラブルでも起こしたの?」 「違うよ。むしろ顔も知らないの。最近は、こうしてご近所同士で、べったり付き合う方が珍しいよ。けれど隣に頼りになる人がいたらさ、やっぱり心強いし、寂しくても一人じゃないでしょ?」  するとおばちゃんは、くすくすと意味ありげな笑い方をする。 「お隣さんと、仲良く出来ると良いわねぇ」  仲良くもなにも、実はもういない。
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