episode1

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今は3月ということで、出会いと別れの季節である。以前となりに住んでいた女性は、先週に引っ越して行った。業者のトラックが止まっていたし、段ボールを積んでいるのを見たのだ。結局一度も顔を合わせなかったし、挨拶さえしなかった。ゴミ出しのタイミングぐらい、鉢合わせしても良い筈なのに、何のめぐりあわせなのか、驚くほどすれ違いが続いた。誰かが作為的に仕組んでいたとしか思えない。お隣さんは、とても物静かな人だった。時々テレビの音と目覚ましのアラームが壁を抜けて聞こえるだけで、他の生活音は皆無だったのである。笑い声も喋り声も聞こえない。むしろ私の独り言の方がうるさいのではないかと、心配になるぐらいだった。家賃が楽康で壁の薄いアパートだけれど、こうして快適に過ごせたのは、彼女のお陰でもある。顔も知らないご近所さんに、手のひらを合わせて感謝する。どうか今後、せめて一年は誰も引っ越してきませんように。そう切に願った。 「また、お金返しに来るからね」 「そんなの、いつでも良いわよ。久し振りに顔を出しに来てくれて、嬉しかったわ」  右手に千円、左手にヌンチャクを持ち、鈴木のおばちゃんの家を出た。焦げ茶色の小枝が塀から伸びていたので、いたずら心でポキリと折ってみる。中を覗いてみると、空洞で青い空が見えた。中身の無い空っぽなところが、私とそっくりだ。家族の前で見栄を張ったところで、トッポのようにチョコたっぷりとはならない。もうじき芽吹くであろう桜の匂いを探し、ぐっと仰いでみた。暖かくて、香ばしい匂いがする。焼き魚だろうか。いや、炭火の匂いが強くなってきた。もしかすると、庭でキャンプでもしているのかもしれない。小さい頃、家族三人でやったな、と懐古的な気持ちになり、ふふっと笑ってしまう。口を覆うけれど、もう限界だった。全部、泣かない為の言い訳である。せっかくおばちゃんのお陰で泣き止んだのに。また音もなく涙が零れ落ちて、どうしようもない自分を恥じた。
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