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それは、深海の底から響くような不思議な声だった。
「すみません、あの」
初めて声を聞いたのに、振り向く前からあの彼だとわかった。体温が1℃くらい上昇したような気がして、わたしは小さく慌てる。
「はい」
彼を見かけるようになった翌週のことだった。夏月とは授業のかぶらない火曜日。
あまり見かけないデザインの眼鏡の、薄いレンズ。その奥の凪いだ海のように穏やかな目。知性の光を宿した彼がそこにいた。
「新館ってどうやって行くんですか? ちょっと迷っちゃって」
それは何かの口実のようにも聞こえたし、切実に助けを求めているようにも聞こえた。眼鏡のブリッジを落ち着きなく触る指先に、わたしの目は吸い寄せられた。
「えっと、いったんこの本館を出て……」
わたしは宙に指で地図を書きかけて、
「あ、わたしもこれから新館行くんで、よかったら一緒に」
と小さな勇気をかき集めて言った。ああ助かります、彼が安堵を見せる。
こんなに距離が近いのに、酸素濃度は低く感じなかった。
新館へは、いったん本館のある敷地を出て、国道の横断歩道を渡り、ビジネス街の一角まで行かなくてはならない。
ただ遠いだけではなく、わたしは新館が苦手だった。
入学してほどない頃、新館での初めての授業のために移動したときだった。女子学生の容姿ジャッジをする男子たちに出くわしたのだ。
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