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 さて、どうしよう。人当たりの良い日下部さんでも井上さんは苦手なようで渋っている。  その気持ちはよく分かる。あの井上さんを相手にするのは誰でも避けたい。でも指示に従わないとフク先生は納得するまで絡んでくるだろう。  私は頑張ってみようと思い始めていた。偶然だけれど、沢山の人に好かれる日下部さんと同じ係になれた。少しでも仲良くなりたい。 「じゃあ、私がやってみようかな」  日下部さんはびっくりして、すぐに心配してくれた。私は勇気を振り絞り窓際の席に慎重に近づく。目の当たりにするとやっぱり緊張する。呼吸を整え、心の中でかける言葉を何度も呟き練習する。  頑張れ私。日下部さんの役に立つんだ。 「井上さん、先生に頼まれて廊下の習字を外すんだ。一緒にやろうよ」  放課後を謳歌する教室がわずかに静まる。井上さん、と呼んだとき、何人かの注意がこちらに逸れたのだと思う。体が重い。注がれる眼差しに錘がついているみたいだ。居心地の悪さに逃げ出したくなるが、意を決して相手の肩を軽く揺らす。  井上さんの指先がわずかな反応を見せた。頭が持ち上がり長い黒髪がぞろぞろと動く。まるで力のない蛇だ。背中を丸めたまま乱れた前髪を緩慢に払うと、彼女は半開きの目をこちらに向ける。 「私になにか用事?」  寝起きのわりに発音は鮮明で、ちぐはぐとした怖さがある。井上さんはとにかく不気味だ。表情や口調で相手の気持ちが伝わるものだが、彼女は何を考えているのか分からない。  私は恐る恐る係の手伝いがあると改めて伝えた。反応がなくもう一度口を開けば、聞こえていたようで遮られる。これで一安心、来てくれるのかと思いきや、井上さんは帰り支度を始めた。  私は唖然とする。今の流れで、どうしてそうなるの。 「ごめんね、もう帰らないと。係の手伝いをしたいけど、家で色々やることがあるの」  それは私達の手伝いよりも大事で、習字の一枚を剥がす時間もないの?   井上さんにかけた言葉は、相手を簡単にすり抜けて消えてしまう。残るのは虚しさだ。  机に張り付いてばかりなのに下校となれば足早だ。そんなに帰りたいのならいっそ来なくても良いのに、なんて思う私はひどい人間だろうか。
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