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 井上さんがいない夏休み前まではとても平和だった。あの頃に戻れたら良いのに。 「宮本さん大丈夫? まったく、あの態度はないよ。私達の気持ちも分かって欲しいよね」  日下部さんが整えた眉を吊り上げて怒っている。私はほっとした。 「ごめんね、失敗しちゃったみたい」 「謝ることないって。フク先生がひどいんだよ、こうなるのが分かってるのに頼むんだから」  井上さんへの不満が膨らむ原因は先生にもある。居眠りが続けば怒られて指導されるのが一般的なのに、彼女にはない。かといって放置されているわけではなく、クラスに馴染ませようとする節がある。耳当りの良い言葉ばかりを並べた仲間の助け合いに巻き込まれるのは辛い。  集めた習字を配り終える頃、フク先生が教室に戻って来た。見返りはたった一言「ありがとう」だけだ。お礼なんていらない。今すぐにでもなんとかして欲しい。日下部さんはクラスの皆の気持ちを代弁して訴える。 「先生、さすがに限界なんですけど」 「そう怒るなって。井上には事情があるんだよ」  決まり文句の事情は教えてくれないし誰も知らない。理由は分からないままで、今日もすっきりはしない。  係の仕事は悩みのタネだが、そればかり考えてはいられない。来年は受験生だ。  勉強をする時間は塾に通ってから増えた。毎週三回、友達が始めたのをきっかけにお母さんに頼みこんだ。疲れるときもあるけれど、友達がいるし、何より日下部さんが同じ教室にいる。日下部さんは塾が終わるといつも友達に囲まれていて華やかだ。そんな彼女が係をきっかけに気にかけてくれる。ちょっとした優越感だ。 「日下部さんはすごいね。数学の小テスト、結構難しかったのに満点なんだもん」 「そんなことないって。隣の席の杏ちゃんの予想がたまたま当たったの。杏ちゃんは難関校を目指して何度も模試に挑戦しているから、先生が出しそうな問題が分かるんだよ」  日下部さんは友達が多いだけある。好みを把握しているから、不快になる話題はなく世間話がとても楽しい。人気者の秘訣は相手に合わせる気配りにあるのかもしれない。 「ねえ、宮本さんのことは優花ちゃんって呼んでも大丈夫? 同じ係で沢山お喋りするのに、いつまでも名字で呼ぶのは悪いかなと思って」 「嬉しい。もちろん大丈夫だよ」  穏やかに返事をしながら天にも昇る心地だった。日下部さんが名前で呼ぶのは仲良しの友達だけだ。 「じゃあ学校でね、優花ちゃん」 「うん、またね日下部さん」 「そこは千歌ちゃんでしょ」  そっか、これからは千歌ちゃんになるんだ。千歌ちゃん、千歌ちゃん。大切な名前を胸の内で呼びながら、駐輪場から自転車に乗った。ハンドルが軽い。いつまでも漕いでいられそうだ。過ぎゆく茜色の町並みがキラキラと輝いて見える。
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