闇を裂く杖

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「武彦! 武彦!」  中年を過ぎた女が泣き叫びながら、青年の体を揺さぶる。嗚咽が警察署の霊安室にこだまする。  青年からはなんの反応もない。ただ、されるがままにゆさゆさと揺れている。彼の母であるその女、カネは武彦の胸に顔をつっぷして大いに声をあげて泣いた。  原田武彦、享年十七歳。  十五歳で中学校を卒業して以来、製紙工場に勤務していた。母一人子一人で、幼い頃から聡明であったが、父のいない貧しい家計を助けるため進学は諦めたのだ。  彼には親しい友人も恋人もいない。温厚で人の好い性格であったが、引っ込み思案なところがあり、孤独の中に生き、母親のカネと、幼い頃から親しくしていた従妹だけが彼の心の支えであった。  武彦は人に蔑まれることはないまでも、純朴さと几帳面さのせいで人からいいように扱われることが多かった。 中学時代には同年の素行の悪い男子生徒たちから金品を巻き上げられていたという噂もあったが、戦争前後の当時、貧しいものたちが弱いものから奪っていくことは多く見受けられ、学校でも深くは追及されなかった。  卒業して学校から離れ、武彦の周囲もかなり変わった。同僚には年代の近い華やかな女性も多かったし、武彦のことを好男子と認めてくれる同年配の男子もいた。ただ、武彦は、自分の評価がどうであっても、謙虚で控えめな性質を変えることはなかった。  たった一人の従妹である綾子に「俺はどうあっても、出世など出来る人間ではないから」と弱音をこぼすこともあった。そんな時、綾子は「いい、いい。武ちゃんは、武ちゃんの思うとおりに生きるのがいい。だって、優しいもの」と言って、慰めた。
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