去年の夏

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去年の夏

 最高気温は38度、体温を超える季節だ。  こんなに蒸し暑い日は家から出ないに限る。  原稿を執筆していると、何かの鳴き声が聞こえてきた。明らかにセミではない。 「え、もしかして子猫・・・?」  フンをされたら大変だと思った私は、急いで庭へ出る。  家の影となって太陽が当たらないコンクリートの上に、やはり猫がいた。だが、子猫ではなかった。不思議に思うと同時に、驚いた。 「あ、赤ちゃん!1、2、3……4匹もいる!」  母親と思わしき黒猫の後をついていく子猫たち。手のひらくらいの大きさだ。生後どのくらいだろうか。猫を飼ったことのない私には検討もつかない。  子猫たちをジロジロ見ていると、目の前に母猫が対峙(たいじ)してきた。 「お母さん、痩せてる……そんな小さな体で4匹も産んだの」  母猫は一歩も譲らなかった。  子どもたちを必死に守ろうとしている。 「守るものがあるから 強くなれるの」  安室奈美恵のファイナルツアーで聞いた『Finally』がフラッシュバックした。  29歳、独り身の私にとって、それはまだ経験したことのない世界だった。 「母は強し、か」  3分前まで野良猫にフンをされたら困ると思っていた私だが、追い払うことなんてできなかった。  翌日ーー。  庭に出てみると、母猫の授乳している姿があった。一生懸命、食らいつく子猫たち。  命を繋ごうとしている。  あんなに細い体で……。  自然の摂理を唐突に理解したその瞬間、目頭が熱くなった。 「暑いから、せめてお水だけでもあげよう」  私の住む地域では、野良猫への餌やりは禁止されている。  どうにかして力になる方法はないものか。  インターネットで調べてみると、毎年3万匹もの野良猫が殺処分されていることを知った。  目も開いていない生まれたばかりの子猫が大半だという。 「あんなに小さな命が奪われていくなんて……」  胸がぎゅっと苦しくなる。 「地域猫はじめませんか?」  ふと馴染みのない言葉が目についた。何気なくクリックしてみる。  地域猫とは、特定の飼い主はいないが、地域住民の合意の上で世話をする猫を指すらしい。  これ以上、不幸な命を増やさないように、自治体が不妊・去勢手術費を補助していた。 「地域猫なら、ごはんもあげられる」  私は一縷(いちる)の希望を見つけた。  とはいっても、キャットフードはどこで買えばいいのか?  ダメ元でいつものスーパーに行くと、キッチンペーパーなどの隣に売っていた。今まで目もくれたことがなかった。  早速、さっきまでお肉が入っていた発砲トレーにキャットフードを入れて、母猫に持っていく。  ところが、すぐには食べなかった。 「お腹が減っていないのかな?とりあえず置いておくね」  30分後、気になって様子を見に行くと、一粒も残していなかった。  私は、自分の口元が緩むのを感じた。  一度手を差し伸べると、底なし沼に陥るのはなぜだろうか。私の行動は、次第にエスカレートしていった。 「いらなくなったプランターが猫トイレ代わりになるらしい」 「寝床になるダンボール箱をあげよう」 「雨が降ったら大変だから、防水のペットキャリーを置いてあげよう」 「子猫たちが大きくなって狭そうだから、キャリーの隣にケージを置いてあげよう」 「不妊去勢手術は生後6カ月になったらできるらしい。地域猫の申請だけ先にしておこう」  黒猫親子にすっかり魅了されてしまった私は、いつしか猫に時間とお金を費やすようになっていった。 「優子ちゃんって、昔から猫好きだったっけ?」  学生時代の友達には驚かれた。  ただ、猫は一向に懐いてはくれないのだけど。  そんなある日、子猫の一匹がいなくなった。一匹だけ黒猫じゃない茶色いシマシマの子。  どこを探してもいない。黒猫の親子しかいない。次の日も、その次の日も、姿を現わすことはなかった。 「もう戻ってこない……」  そう悟った。涙が止まらなかった。
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