君と共に

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「こんばんは」  彼は金曜日の19時には決まってここに来る。  必ず来るとわかっているのに、今週も彼の姿を見れたことが嬉しくて鼓動が高まる。 「いらっしゃいませ。いつものでいいですか?」 「えぇ」  彼は小さくうなずいて、ゆっくりと店先のベンチに腰掛けた。  店内の席はコロナ禍でディスタンスを保つため、半分にしている。もともと、カウンターに八席しかない店内は一席あけると、四人しか座れなくなってしまうため、店先に木製の二人掛けベンチを置いた。すると、そこが彼のお気に入りの席になった。 「今日は満月ですね」  彼の言葉に手を止めて店の小窓から外を覗くと、枯桜の向こうに丸い月が光っていた。 「ほんとう。まるくて綺麗」 「月の姿は、美しくて楽しい眺めですね」  私は彼の事が好きだ。少し線の細い体型や骨張った手、そして、ガリレオの言葉を引用してしまうところなんて身がよじれるほど愛おしい。 「どうぞ、グアテマラです」  テイクアウト用の紙カップにスリーブをつけ、小窓から手渡す。  細く美しい彼の手に触れたい。その気持ちでわざとカップの真ん中を持ちながら差し出すと、思い通りに触れることができた。彼の体温を感じて喜ぶ私をよそに、彼は何事もなかったようにコーヒーに口をつける。 「おいしい」 「ありがとうございます」  おいしいの一言がなによりも嬉しい。  一杯のコーヒーを入れるために豆の選別から煎り方、挽き方、お湯の温度やカップなどあらゆるものにこだわりを尽くした。これ以上に美味しいコーヒーは無いと自負している。 「最近はお忙しいですか?」 「コロナのせいでさらに忙しくなってきましたよ。いままでの患者に加えてコロナの患者もみなければいけなくなってしまったから」 「先生は、いつも丁寧だから余計に時間がかかるのですよ」 「あはは、そうかもしれませんね」  彼は笑いながらぼんやりと月を見上げている。 「寒くないですか?」  ブランケットを差し出すと、彼は受け取り膝に掛けた。 「マスター、喘息の調子はいかがですか?」 「喘息の息苦しさはないのですが、コロナ禍だと何をしていても重苦しいです」 「まったくです。早くワクチンが普及して、収束して欲しいですね。喘息が悪化するようなら早めに来院してくださいね」 「はい、いつもありがとうございます」  自分用にもコーヒーを入れ、口をつけながら月と彼を交互に見つめる。  小窓から冬の冷たい空気が流れてきて心地よい。  今までの暮らしを続けていては、冷たい冬の空気と温かいコーヒーがこんなに合うものだと知ることもなかっただろう。  前職のシステムエンジニア時代に忙しいあまりに人の心を失っていき、全てが嫌になった。  会社に辞表を提出し、始めたのがこのコーヒースタンドだ。  軌道に乗りはじめた三年目の冬。その頃から彼がここに来るようになった。  仕事帰りに普段と違う道で帰ってみようと思って歩いていたらここを見つけたそうだ。  話をすると呼吸器内科の医師だとわかり、持病の喘息のかかりつけ医となってもらった。  彼と出会ってからもう一年が経とうとしているが、私の想いは胸に秘めたまま、伝える事ができずにいる。 「おまたせー」  三十代くらいの女性が彼の前に走って現れた。待ち合わせをしていたのだろう。 「○○先生がオペ中に動脈傷つけたみたいでさー、それで帰室が遅れてこの時間になっちゃったよ」 「それは大変だったね。患者さんは?」 「とりあえず大丈夫そう。しっかり止血したみたいだし」 「なら良かった。あっ、瑞穂もコーヒー飲む? ここのコーヒーは最高だよ」 「あたし、いらない。夜にコーヒー飲むと寝れなくなっちゃうんだよね」 「そっか。じゃあ、ごちそうさま」  彼はペコリと頭を下げてカップを返却し、女性と駅の方向へ去っていった。 「マスター。行っちゃいましたね」 「あぁ」  振り返るとアルバイトで働いている莉子がにやにやしていた。 「マスター、好きなんでしょ?」 「ん?」 「さっきの人。顔に書いてありますよ」 「まぁ、うん」  最近の子はデリカシーが無いから、あまり好きでは無い。 「別にいいんですよ。恥ずかしがらなくても。いまどき、男が男を好きになっても珍しくない時代ですから」  私は残ったコーヒーを流し、紙カップをゴミ箱に捨てた。  こうも簡単に秘めている想いは見破られてしまうものだろうか。 「ねぇ、マスター。私じゃダメなんですか?」 「えっ?」  莉子の方向を向くと豆の袋詰めを止め、じっとこちらを見つめている。 「私みたいな若くて可愛い女の子の方が、良くないですか?」 「は、はあ……」  たしかに、莉子は若くて可愛いのだが、それは自分で言うものだろうか。 「マスターは女の子は嫌いなんですか?」 「嫌いなわけじゃないけど……」  男性と一緒にいた方が安心感があるのだ。 「それに、私のことがいいって思ったから、雇ってくれたんじゃないですか?」 「それとこれとは別。莉子さんは真面目に仕事をしてくれるけど、恋愛対象じゃない」 「ふーん。そうなんだ」  莉子は口を尖らせ、豆の袋詰めを再開した。  私の恋愛対象は基本的に男性。女性でも好きになることはあるけど、三十代後半の私と二十代前半の莉子には年齢差がありすぎる。加えて、コロナ禍で経営が傾き、今は恋愛どころではないのだ。 「莉子さん、大事な話があるのだけど」 「なんですか?」 「今月のお給料だけど、全額払うのは難しそうなんだ」 「えっ? マスターは給料を全額払うつもりでいたのですか? あはは。ウケる」 「いや、笑い事じゃないんだけど。非常事態宣言出ちゃって客足も止まっちゃったじゃない。だから、結構キツイんだ」 「お店がキツイのはここにいればわかります。でも、私は最低限の生活ができれば十分なんで、バイト代は半分くらいで良いですよ。他にもバイトはしてますから」 「そういうわけにはいかないよ。莉子さんは一生懸命働いてくれているし、豆のウェブ販売を始めるにあたってたくさんお手伝いしてくれたし。必ず支払いをするからもう少し待ってくれないかな?」 「じゃあ、待ってます。でもね、マスターは私を生かしてくれてる。それだけで十分」  莉子は手を止め、こちらを向いた。 「去年、大学受験で失敗して、おばあちゃんがコロナで死んで、いい事なんて何もなくて。全部嫌になって家出した私をマスターは拾ってくれた。いま、生きてる事も奇跡」  莉子をみるとうっすらと涙を浮かべている。 「あの時、本気で死のうと思ってたんですよ。でも、ここに来ちゃってマスターの入れるコーヒーを飲んで、美味しくて感動して。ここで号泣したの覚えてます?」 「もちろん。あの時はだいぶ思い詰めていた顔をしてたよね」  あの時、莉子を放っておけなくてアルバイトで雇った。するとすぐに実家を出て一人暮らしを始めたらしい。 「バイト代もらえないなら、マスターの家に転がり込むから大丈夫です」 「いや、それも……。困る」  生活費は二人で暮らした方が安上がりかもしれないが、大学入学してから二十年間一人暮らしだった自分の生活に他人が入ってくることが出来るだろうか。  いや、そういう問題でもないような気がするが……。 「そんな心気くさい顔しないでくださいよ。なんとかなりますって。さて、そろそろ閉店してマスターの家に行きましょう」  時計を見ると閉店時間の5分前だった。 「ほんとうにうち来るの?」 「行きますよ。バイト代の代わりにいろいろ差し押さえておかなければいけませんからね」 「いや、ちょっと待ってよ。差し押さえって、うちにかねめのものなんてないよ」 「探したら何か出てくるかもしれませんし、楽しみにしてます。じゃあ、時間なんで閉店業務始めますね。ふんふふーん♪」  莉子は鼻歌を歌いながら、店先のベンチを店内にしまった。
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