番外編・ねがいごと

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 物心がついた頃には父はおらず、母と二人暮らしだった。  現在、小学三年生の生島怜は、これまでのことを振り返りながら児童養護施設の一室で母の面影を想った。  ここは、入所する子供たちが勉強部屋として使う共同スペースだ。休日の夕刻。部屋の片隅で怜は鉛筆を取り、手紙をしたためていた。  母と離れて一年近く。聡い怜にはわかっていた。これから母と一緒に暮らすことは一生ないと。  寂しくないと言えば嘘になるが、記憶の中に存在する母はいつも怒った顔をしている。苛立ってはヒステリックな声を上げていた。  そんな母の一番のタブーは父の話だ。  一度だけ聞いたことがあった。『俺のパパはどんな人?』と。四歳になったばかりの頃だ。すると母は狂ったように怒りだし、幼い怜を罵倒した。それ以降、怖くなって父のことは聞けず仕舞いだ。  保育園に通う、同じ歳の子にはみんな『パパ』がいる。けれど自分にはいない。それが不思議で、寂しかったから聞いただけなのに、どうして母はこんなに怒るのか。  この時から怜は母の顔色を更に窺うようにして生きてきた。それでも、時折優しい笑みを向けてくれる母が大好きだった。嫌われていないと安心した。  二人で暮らす都営住宅は狭かった。  時々、知らない男が一緒に住むこともあった。母の交際相手だ。しかし気が付けば、また別に男に変わっている。そんな事が何度もあった。  男たちは決まって怜を邪魔者扱いした。だが、暴力を振るったのは、あの男だけだ。働きもせず、お酒ばかりを飲んでいた。目の前に怜がいても全く気にせずに煙草を吸っていた。喉がヒリヒリする煙は好きになれなかった。こんな男、どこがいいのだろう。母の気持ちがわからなかった。別れたと聞いた時は、正直ほっとした。これで殴られなくて済むと……。 「っ……!」  脳裏に金髪頭の若い男の顔が過った瞬間、手紙を書く手が強張った。
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