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三時間後――。
「でさぁ、あいつの作る料理の中で、一番の絶品は鯖の味噌煮なんだよぉ……マスター聞いてるぅ?」
閉店三十分前。他の客は帰ったというのに、一司は完全に出来上がっていた。もう泥酔状態だ。
「聞いてますよ……。その話、これで三回目です」
うんざりといったところだろう。酔客と化した一司をマスターは一瞥した。
「嘘だな。絶対、聞いてねぇだろ~!」
酔っ払い特有の絡みだ。一司はヘラヘラと笑ってマスターを指差した。
「だから聞いてますって。神谷さんが料理上手だってお話でしょう?」
「そうそう。ああ、でも最近食べた肉じゃがもなぁ、美味かったんだよなぁ」
次は蕩けた表情で頬杖をついた。味を思い出した瞬間、口の中が唾で潤った。神谷の手料理を口にしたら、もうアウトだ。誰だって虜になる。
(そうだ、誰だって……)
これまで神谷は何人の男に振舞ってきたのだろう。恋をしたら一直線のタイプだと知っている。酒で鈍った思考が、ほんの一瞬ヒリついた。
「よく家に行かれるんですね。いつから行くようになったのですか?」
「んーいつからだっけなぁ……えーと、んーと……」
答えようとしたが呂律が回らない。次第に視界が霞みだし、強い眠気が襲ってきた。一司はそのままカウンターに突っ伏した。
「ちょっと大槻さん、寝ないで下さいよ。もう閉店時間なんですって……」
マスターが肩を揺さ振ってきた。しかし一司は動かない。
(気持ちいいな……)
睡魔に誘われるまま瞳を閉じた。すると頭に何かが触れた。誰かに髪を優しく撫でられている。そんな感触だ。愛でる動きが、一司を眠りの世界へと優しく導いてくる。
「……髪、柔らかいですね」
マスターの声が耳朶を擽った。鼓膜が小さく震えた。それすら今は心地よい。
(柔らかい……?)
彼が髪を撫でているのか。どうしてと考える思考は残っていなかった。
ああ、もう眠ってしまう。一司の意識が完全に落ちる寸前、扉が開いた。
「かずちゃん――?」
神谷の声が聞こえた気がした。
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