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「か、神っ……!」
口にしかけた名前を一司は咄嗟に飲み込んだ。一哉が近くにいるからだ。危ないところだったと、一司は冷や汗をかきながら演技をはじめた。
「っ……どうも、先日は、大変にお世話になりまして、ありがとうございました」
『やだ、なんなの? 畏まっちゃって……』
電話の向こうで神谷は怪訝がるが無視だ。とにかく仕事の振りをしてこの場を離れよう。一司は階段を上った。
「ああ、そうです。あの件はセンターで処理済ですので……」
自室の扉を開いて逃げんだところで、神谷が詫びを入れてきた。
『かずちゃん、昨日は本当にごめんなさいね。あたしも凄く会いたかったんだけど……』
まるで一司が期待していたような口振りだ。
「別に気にしてねーよ」
気に食わない。閉めた扉に背を預けて突き放すように返すと……。
『それでね、今からお店に来ない?』
「こんな時間に何でわざわざお前の店まで行かなきゃなんねぇんだよ」
突然の誘いに一司は首を傾げた。
神谷が店を勤めるメンズブランドショップは港区・六本木にある。交通機関を使えば三十分で行ける距離だ。
『いいから来てちょうだい。来るまでずーっと、待ってるからね』
「お、おい……神谷!」
言うだけ言われて通話は切られた。
(なんだよあいつ……)
こっちの都合はお構いなしの態度に眉を顰めた。
勝手な約束だ。行かない選択肢もある。しかしと、一司は端末を手にしたまま考えた。それだと神谷はずっと自分を待ち続けるだろう。
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