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「ああ、もう……わかったよ。貰ってやるよ。ありがとな!」
折れた。一司はケースをパーカーのポケットに突っ込んだ。
「あん、嬉しい! それにかずちゃんからお礼の言葉って貴重じゃない? 可愛いっ」
感激したのだろう。神谷が両手を広げて飛びかかった。このままだと身体が軋むほど抱き付かれてしまう。危機を感じた一司は神谷の脇をすり抜けて、抱擁から逃れた。
「つれないんだからっ!」
空を切った腕に神谷はガッカリと項垂れていた。
「うるせーな。取りあえずトイレ貸してくれ」
濡れた中心部を少しでも綺麗にしたい。手洗いへと案内してもらおうと思ったが……。
「かずちゃん……今日何かあった?」
「な、何でそんな事を急に聞くんだよ……」
唐突な問いに一司は表情を引き攣らせた。
「深い意味は無いけど、かずちゃんと会った瞬間、いつもと雰囲気が違うなって思ってね……どうかした?」
「っ……」
顔をそっと覗かれた。一司は咄嗟に顔を背けた。真っ直ぐな眼差しに耐え切れなかったのだ。
「かずちゃん?」
「……なんもねぇよ。今日は一日中寝てただけだ」
口から出たのは嘘だった。脳裏に智史と陽菜の笑顔が浮かんだからだ。
言えばいいじゃないか。悪いことじゃないはずだ。久し振りに子供たちと会って、打ち解けたことも全部、話せばいい。けれども何故か言葉に出来なかった。したくなかったのかもしれない。
『父親』の部分と、神谷の前で見せる『一司』がぶつかり合っていた。
「寝てばっかりだと、牛になっちゃうわよ」
「ほっとけ……」
優しく抱き寄せられた。次は逃げなかった。大人しく腕の中に収まった一司に神谷は尋ねる。
「かずちゃん……今夜、部屋に来る?」
「……行く」
帰る選択は蹴った。
神谷の前の一司でいることを、今は選んだ。
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