複雑な素直

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「あら、素敵なネクタイピンね」  迎えた翌週、水曜日の朝。時間通りに出勤した。ジャケットを脱ぐ一司に一ノ瀬が声をかけた。 「……どうも」  不愛想に返しながら席に着いた。  彼女が褒めたのは、数日前に神谷からプレゼントされた、あのタイピンだった。  別に着けたかったわけじゃない。白のワイシャツに選んだのは、秋らしいボルドー色に茶系のストライプの入ったネクタイだった。今日のファッションに合うと思い、部屋の机の上に置いてあったケースを開いたのだ。 「そこのブランド、有名だから知ってるわよ。彼女からのプレゼントか何か?」  鬱陶しい質問だ。女は何歳になっても、こういった話題が好きで呆れてくる。一司はパソコンの電源を入れながら、当たり障りのない答えを考える。  彼女じゃないと返せば、 いい加減、恋人の一人くらい作れと言われそうだ。とはいえ『彼女からです』と嘘をついたとしても、それはそれで追求されるに違いない。 「いえ……友人からです」  考えた結果、そう伝えた。神谷の顔が過った。友人とも言えない関係だが、それしか言い様がない。一司はそのまま一心不乱にデータを打ち込んでいった。 「あら、そうだったの。仲がいいのね」  次の問いには答えずに一司はエンターキーを強く押した。コピー機から出てきたのは虐待対策のリーフレットのデザイン画だ。ミスがないかをチェックをしたところで、一ノ瀬が予定の確認を入れてくる。 「大槻さん、午後からのセンター訪問、よろしくね」 「わかりました。この前にみたいに、田辺副所長の裏切りだけは勘弁ですからね」 「裏切りってまた大層ね……」  はあっと、大きな溜息が聞こえた。 (溜息をつきたいのはこっちだ!)  前回の訪問を思い返した。  結局無駄足になり、挙句の果てに子供のボール遊びに付き合わされたのだ。もうあんなのは御免だ。今日は田辺との話が終わればすぐに退散だ。牧野に見つからないようにしよう。一司は強く心に聞かせた。
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