1530人が本棚に入れています
本棚に追加
「それで、ネクタイピンは見つかったの?」
「……いえ」
力なく首を左右に振った。あの後、雨は更に強くなり、中断せざるを得なかったのだ。
「よっぽど大切な物なのね。大槻さんが、そんなになってまで探すそのネクタイピンは……」
全身ずぶ濡れで泥だらけとなった一司に、牧野は少し切なげに笑った。
(大切……?)
困惑した。必死になって探したのは事実だ。その結果、見つからなかった。どうしたらいいのかわからないほど、ショックを受けていた。一司は唇を強く結んで、深い喪失感に耐えた。神谷の笑顔を思い出すだけで、心が痛かった。
牧野が用意した職員用のジャージに着替えた後、足早にセンターをあとにした。雨は止み空には夕焼けが広がっていた。憎たらしい天気だ。一司はオレンジ色に染まった雲を睨んだ。
局に戻った一司の姿を見た瞬間、一ノ瀬含め、課の職員はギョッとした表情を向けてきた。それもそうだ。深緑の上下のジャージに白の運動靴を履いているのだ。何かあったことは一目瞭然だ。
「一体どうしたの?」
席に着くなり、一ノ瀬に聞かれた。
「……広場で転びました」
それだけを伝えて、不在の間に届いたパソコンメールをチェックした。
「そうだったの……子供たちと遊んでくれのたのよね。ありがとう」
「いえ……」
一ノ瀬はそれ以上、追及してこなかった。一司はとにかく業務に没頭した。何もかも振り払うように。
***
「ああ、疲れた……」
残業が一段落ついたところで、一司は腕を伸ばして肩の凝りを解した。時刻は夜十時。一ノ瀬はとっくに帰宅し、課には誰も残っていなかった。フロアは不気味なほど静まり返っていた。
どうやら集中し過ぎたようだ。そのお陰もあってか、溜まっていた処理は大方片付いたが、一司を襲ったのは強い疲労と脱力感だ。身体も熱っぽい。額に手を置くと、掌がじんわりと熱くなった。微熱だろうか。昼間の雨でやられたのかもしれない。
こんな時は家に帰ってゆっくり休むに限るだろうが、一司にとってあの空間は窮屈そのものだ。
(それだったら……神谷のところでも…)
行こうかと、スマートフォンを手にしたがやめた。ネクタイピンをなくした罪悪感がそうさせたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!