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プロローグ
肌寒い夜だった。六月も半ばに差し掛かり、昼日中は蒸し暑い程の陽気だったが日が陰ると気温はすとんと落ちていった。加えて、夕方から降りだした雨。雨は降ったり止んだりを繰り返し、熱を洗い流していった。二〇時を過ぎた今、外には霧雨が降っている。
「ただいま」
『三〇四』と書かれた部屋の扉を開きながら、彼女はそう言った。一人暮らしの部屋ではそう言ったところで「おかえりなさい」と返ってくるわけではないのだが、家へと帰ってきたときに「ただいま」と言うことは幼い頃から彼女の習慣だった。何もないと理解はしているが、長年に渡って染み着いた習慣はなかなか消えるものではない。
荷物を玄関に放り出し、上着を脱ぐと、彼女は真っ直ぐに洗面所へと向かった。たかだか霧雨と侮り、傘をささずにアルバイト先から歩いて帰ってきたら大分濡れてしまった。手を洗ったついでにタオルで濡れた頭を拭く。
さんざんな日。と、彼女は声に出さずに呟いた。今日は一日、何をやっても上手くいかなかった。大学の講義では上の空でいたところを当てられたし、アルバイト先の本屋では本の山を崩しそうになってしまい危なかった。そして、帰宅の際の雨。後は夕飯を食べて、シャワーを浴びて寝るだけだが、まだ何かありそうな気がしてくる。これ以上何もないよう早く寝たほうが良さそうだ。
ゴロゴロとくぐもった音が聞こえた。遠くで雷が鳴っている。これから夜半にかけて雨は激しくなるのかもしれない。もしそうだとしたら、霧雨のうちに帰ってこられたのは幸運だろう。
タオルを洗濯機に放り込むと、彼女ははたと何かを思い出したように玄関へと戻った。放り出したままの荷物を掻き回し、一通の封筒を取り出す。空色の綺麗な封筒だ。封筒の表面には『大野 陽向 様』と書いてある。住所は記されていないから、直接郵便受けに入れたのだろう。気味が悪い、はずなのだがそう思いきれないのはその文字に見覚えがあるような気がするからだ。やや丸みをおびた右上がりの文字は、中高生の頃に周りの女子生徒の間で流行った字体だ。封筒を裏返す。封筒の裏面には封を示す×印が書いてあるだけで、差出人の名前もない。
奇妙な手紙だが、自分宛の手紙を開封しないわけにもいかない。陽向はローテーブルの上のペン立てからハサミを取り出すと、慎重に封を切った。
ひなた ――
久しぶり。元気? 手紙を書くってなんか変なかんじだね。
その手紙はそう書き出して始まった。
大学はどう? はっきりとは言ってなかったけど、なんとなく、ひなたは大学にいくんじゃないかなと思ってたよ。
今は何の勉強してる? サークルは? 大学でも天文つづけてる?
友達は? 彼氏はできた?
可愛らしい文字は親しげに陽向に近況を訊ねてくる。文字に悪意や害意はなく、純粋に陽向の現在の状況が気になるようだ。この手紙を書いた人物は、きっと少し照れくさくなりながらも、今の陽向に想いを馳せながらペンをとっていたのだろう。文面からは一人の少女が浮かんでくる。道理でこの文字に見覚えがあるはずだった。
一人で机に向かった彼女が時に笑顔で、時に頭を抱えながら文字を綴っている様子が目前に見えるようだ。
――……大学、いったよ。でも、大して面白くないよ。天文はやめちゃった。東京の空は星なんてほとんど見えないよ。友達はできたけど、純ちゃんより仲の良い友達はできないよ。
いたずらだ。もしくは嫌がらせだ。誰が、何のためにこのようなことをしたのかわからないが、そうとしか考えられなかった。それでも、その手紙は懐かしかったのだ。
それじゃあまたね。 ――純
手紙の結びに書かれていたのは、数年前に亡くなった友達の名前だった。
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