第一章

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第一章

 カチカチと壁にかけてある時計の針が時を刻む。陽向はアルバイト先の書店のカウンターからぼんやりとその時計を眺めていた。時計の短針はほぼ真上に、長針はほぼ九の位置にあった。午前一一時四五分。もうあと一五回程秒針が回ったら今日の勤務は終了だった。土曜日の午前中、書店の中に客の姿は少ない。きっと、このまま何事も起こらず勤務時間の終了を迎えられるだろう。 「大野、足疲れないか?」 「いいえ。いつものことですし」  カウンターの前へとやってきた青年に陽向はそう返した。書店のカウンターは人が一人立つともう一杯で、椅子を置いておけるような空間はない。カウンターに入っている間はいつも立ちっぱなしだったが、陽向にはさほど苦ではなかった。 「まあ、体力が取り柄みたいなものなんで」 「運動部だったってわけでもないんだろう?」 「そうですよ」  陽向は少、中、高と運動とは無縁だった。体育の成績はいつも大体平均ほどで、決して良い方ではない。運動が得意な部類ではなかったが、不思議と体力はあったのだ。 「良く食べてよく眠るからかねえ」 「若いからじゃないですかね」 「自分で言うな、自分で」 「ところで、早いですね、坂崎さん。交代まであと一五分くらいありますよ?」 「ほら俺、先輩だし」  とはいうものの、坂崎が先輩らしさを発揮することはあまりない。先日も苦手だからと『pop代わりに描いて』と仕事をふってきたし、普段出勤してくるのは勤務開始時間ギリギリだ。今日早くきたのは気紛れだろう。 「まあいいや。これ、会計よろしく。そうしたらちょっと早いけど上がっていいぞ」 「……なんです、これ?」 「漫画」 「見ればわかります」 「今日発売日なんだよ。今すげー人気なんだ、それ。俺のバイト終わりまで残ってるかわからないから、今のうちに買っておきたくてさ」 「なるほど」  それって職権乱用っていいません? という言葉を呑み込んで、陽向は漫画本を受け取り、バーコードを読み取る。 「五〇六円です。カバーはどうしますか?」 「いや。そのままで。袋もいらないや。レシート挟んでおいて。はい、どうも。ありがとう」  それじゃあ、交代だな。と言う坂崎の言葉に頷き、陽向はカウンターから出る。一一時五〇分――予定よりも一〇分早く、本日の勤務は終了した。  土曜日の東京はどこもかしこも騒がしい。それぞれどこも街の色は異なるけれども、騒がしいことに変わりはなかった。どの街も沢山の人で溢れ、賑わっている。家族連れの、恋人同士の、友人達の、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。  午前のアルバイトを終えると、そのまま家へは帰らず、陽向は電車へと乗った。六月も半ばを過ぎ、そろそろ前期の試験が近付いていた。来週は試験前で何かと忙しいだろうから、出掛ける必要のある用事は今週中に済ませてしまいたかった。  ――本屋行って、あと、切れそうな化粧品と日持ちする食料品と……。  電車に揺られながら、陽向はつらつらと買っておかないといけないものをあげる。前期試験のレポートに必要な本は都心の本屋まで赴けば手に入るだろうか。アルバイト先は本屋ではあるが、住宅地の駅前にあるささやかな書店と都心の大型書店では取り扱っている本の量も種類も異なる。探し物をするなら都心の大型書店の方が都合が良かった。。  耳に入れているイヤホンからは馴染みの曲が流れてくる。とあるバンドの数年前の曲だ。今では新曲は必ずヒットチャートの上位に入るようなバンドだが、この頃はまだ知る人ぞ知るというような存在だった。この曲もそこそこに売れたが、大ヒットとなったわけではない。だが何故か、当時、この曲は陽向のクラスでとても流行した。音楽の流行は日々変わっていく。当時は毎日のように聴いていたこの曲もここ二、三年ぱたりと聴かなくなった。ふとこの曲を久しぶりに聴きたくなったのは、何日か前の妙な手紙のせいだろう。随分前に亡くなった人を装った手紙なんて気味が悪いだけなのだが、どうにもあの手紙が気になり、捨てられずにいた。  手紙を書いた(と思われる)純は陽向の中学時代の友達だった。フルネームを川瀬純という。友達だった、というのは、純が亡くなったからだ。いや、亡くなったと聞かされた。中学三年生の夏、ある日突然純はいなくなって、後から亡くなったとだけ聞かされたのだ。葬儀にも出ていないし、遠方にあるだとかでお墓参りにもいけていない。その頃のことは何故か記憶が曖昧で、思い出そうとしてもうまく思い出せない。純は陽向の一番の友達だったはずなのに、あの夏のある日を境に、陽向の中から欠落してしまった。  純の親族の誰かが遺された手紙を見つけて送ってきたのだろうか? ――何も言わずに郵便受けに直接投函することは普通しないだろう。大体、実家ならばまだしも、東京に出てきた陽向の住まいを彼らが知るはずもない。それに、純の親族達がそのようなことをするとは陽向には考えられなかった。  曲調が変わる。この曲の聴かせどころだ。  ――私はベースのTakuyaが好きで、純ちゃんはヴォーカルのRiohaが好きだったんだよなあ。  少し声の伸びが足りない。あの頃夢中になって聴いていた歌は、今聴き返すとほんの少し調子が外れている。歌詞の内容もセンチメンタルすぎて思わず笑ってしまうほどだ。それでも、あの頃の自分達にとってどんな歌よりも格好よかったのだ。 『――……駅。降りる際は足下に注意して……』  アナウンスに弾かれたように、陽向は電車を降りる。危うく目的の駅を乗り過ごしてしまうところだった。降りて数分も待てば反対側の電車がくるとはいえそれはいただけない。  電車を降りると、陽向は真っ先に駅近くの書店へと向かった。丁度そろそろ空腹を覚えるような時間ではあったが、昼時の今、付近の飲食店はどこも混んでいる。先に済ませられる用事は済ませてしまった方が良いだろう。  書店に入ると、探していた本はすぐに見つかった。新刊ではないが重版されたばかりなのか棚に平積みにされていて、これならアルバイト先でも入荷したかもしれない。  何はともあれ無事に目的の本を手に入れられたことに安堵し、陽向は書店を後にする。腕時計を見ると丁度午後一時を過ぎた頃だった。今からならばどこか喫茶店にでも入れるだろう。駅前には入り慣れた大手コーヒーチェーン店やシアトルスタイルのカフェが揃っている。手軽にその中から空いている店を見つけてもいいが、今日は少し気分を変えたい。陽向は駅から続く広い通りへと足を向けた。通り沿いに歩いたところで飲食店があるかどうかはわからないが、もしなければ、駅前まで戻って適当な店へと入れば良い。  駅から続く広い通りのため、通りを歩く人の数は多い。通りには服やお菓子、雑貨などを売る店が並び、様々な人が色々な店の前で足を止めたり、出入りしたりしている。向こう側からは流行りのドリンクスタンドのカップを手にした女子高生達が楽しそうに歩いてくる。いいなあ。と思ったが、それが何に対してなのかは陽向自身にもよくわからない。  さらに歩く。通りを歩く人の数は駅前よりは減ったものの、総じて多いことに変わりはない。土曜昼間の都心の広い通りはこのようなものだろう。東京には星の数ほど人がいて、出会って、別れていく。  歩くうちに通りの様子も変わってくる。人通りの多さは変わらないが、店舗の数は減り、オフィス街のようになってきた。――駅から離れすぎたのかもしれない。陽向は道の端によると足を止めた。脇道へと入っていく交差点になっているそこは自然と人の波が途切れている。駅から歩いたのは一〇分ほどだが、ここまでの間に落ち着いて入れそうな喫茶店のようなものはなかった。これは諦めて駅前へと戻った方が良いだろう。そう踵を返そうとした瞬間、ふと一つの看板が目に入った。  その看板は黒い鉄のようなものでできていた。雲と三日月、星とが図案化され、黒い鉄の線で描かれている。それが軒先からぶらんと垂れ下がっていた。まるでゲームか映画に出てきそうな看板だ。近付いてみてもそれが何を表した看板かはわからない。店(だろうおそらく)の前までいってみたが、その店が何の店なのかよくわからなかった。一枚ガラスの窓は陽向の目の高さよりも少し上の辺りまで磨りガラスとなっていて、外からでは中の様子が見えにくい。  謎の看板に謎の店内、これはもしかして営業する気がないのでは? と店と看板を交互に眺めていると、キィと音を立てて店の扉が開く。 「あ、お客さん」  中から出てきたのは少女だ。中学生くらいの年頃だろうか、まだアルバイトをするには少し早いようにみえる。だが、少女はこの店の従業員なのだろう、服の上にエプロンを着けていた。目鼻立ちがくっきりとしていて、少し気が強そうな表情をしている。彼女は陽向と視線が合うと、にっこりと笑った。その笑顔はまるで―― 「ごめんなさい、準備中だったの。今開けますね」 「え、あの……」 「うち、営業開始が遅いんです。その分、夜も遅くまでやっているんですけど」  少女はそういうと扉を開け放ちストッパーで固定した。中の様子が少し見える。カウンターに、椅子は幾つか。ソファとテーブル、そして、ガラスのフラスコにコーヒー豆の詰まった瓶―― 「……コーヒー屋さん?」  そう訊ねると、少女は「そう言われればそうかも?」と、不思議そうな表情をした。答えながらも少女はせわしなく動き、開店準備を進めている。 「コーヒーだけじゃなくて紅茶もあるし、名物はシフォンケーキだけど、でもやっぱり一番注文されるのってコーヒーだからコーヒー屋さんかもしれない」 「……それは喫茶店では?」 「じゃあそれで。特に決めてないんです。コーヒーや紅茶だけじゃなくて、なんか胡散臭い骨董品みたいなのも売ってるし。――さ、どうぞ」 「え?」 「入らないの? お客さんでしょ?」  訊ねてくる少女に「ちがいます」と言うこともできず、陽向は頷いた。促されるまま、店の中へと足を踏み入れる。  店の中は静かだった。照明は点いていないが、壁一面の窓から陽が射し、店内を明るく照らしている。今開店したばかりのため、店の中に他の客はいない。カウンター端や店の隅に置かれた棚には壺や絵画、人形等が置いてあるが、統一感はない。先程少女が『胡散臭い骨董品みたいなものも売っている』と言っていたから、もしかしたら売り物なのかもしれない。 「好きな席にどうぞ。どこも空いてるから」  言われ、陽向は窓際の一席を選ぶ。陽向が席につくと即座に少女がメニューとお冷やを持ってやってきた。 「ええと、コーヒーと、あと……じゃあ、さっき言ってた名物の」 「シフォンケーキ? シフォンケーキは名物だけど、おすすめはレアチーズケーキ」 「……」 「コーヒーといえばレアチーズケーキでしょ?」 「あ、なら、レアチーズケーキで」 「はい、コーヒーとレアチーズケーキ。豆の種類は?」 「お任せで。コーヒーの種類とか詳しくなくて」 「じゃあ、飲みやすそうなものを選びます」  うんうん、と少女は頷き、去っていった。その後ろ姿を見て、似ているな、と陽向は思った。その少女は、昔の友達に――純にとてもよく似ていた。鷹揚に頷く様もレアチーズケーキをすすめてくるのもだ。休みの日にケーキを食べに行くと、純はよくレアチーズケーキを選んでいた。陽向が何にしようか迷っていると、『レアチーズケーキにしなよ』と冗談混じりによく言ってきたものだ。とはいえ、似ているだけで、この少女が純であるはずがない。純はもう亡くなっている。仮に、純が死んだというのが嘘だとしても、この少女は純ではない。もしそうなら、目の前には陽向と同じ一九歳の純がいるはずだ。 「おや、お客さん? いらっしゃいませ」  カウンターの奥、カフェカーテンの向こうから背の高い男性が出てきた。柔和な顔立ちだが、どうにも特徴が掴み難い。どこかで見たような気もするし、初めて見るような気もする。そう思うのは、その人が街のどこにいても不自然でない雰囲気だからだろう。 「ようこそ。何もないところですがゆっくりしていって下さい」 「あ、ありがとうございます。お邪魔します」  少女と同じエプロンを着けているから、この男性もこの店の従業員なのだろう。カウンターの中に腰かけると、悠々とコーヒーを淹れる準備を始める。暫くすると、コーヒーの香ばしい匂いが漂い始めた。  不思議な空間だった。磨りガラスを通して見た街は、靄がかかったように霞んで見える。コポコポとコーヒーサイフォンにセットしたフラスコの中でお湯が沸く。お湯は漏斗の中に吸い上げられ、コーヒーの粉へと染み込んでいった。やがて、ポタポタと漏斗からフラスコへとコーヒーが落ち始めた。まるで時を刻むように。この店の中では現実とは異なる時間が流れているようだった。だが、ここは紛れもなく現実であり、永遠に落ち続けるかのように見えたコーヒーにも終わりが来る。 「はい、どうぞ」  目の前に置かれたコーヒーに、陽向は現実へと引き戻される。継いでレアチーズケーキが置かれ、まじまじとそれを見つめた。 「お待たせしました。ごゆっくり」  出されたコーヒーからはまだ湯気が立ち上っており、ふわりとコーヒーの香りを鼻に運んだ。ナッツのような香りだ。カップに口をつけると口の中に苦味と微かな酸味が広がった。冷たいフォークでレアチーズケーキを掬って一口食べる。コーヒーの苦さを中和するような甘味だ。甘いけれどしつこくない、口当たりの良さと相まっていくらでも食べられそうだった。少女がすすめてくるのも頷ける美味しさだ。――もっとも、あの頃食べていたレアチーズケーキとは違う味なのだけど。  夕刻、街が橙色に染まる頃に、陽向は漸く家へと戻ってきた。妙な店が思いのほか居心地が良く寛いでいたら遅くなってしまい、店を出て残りの用事を済ませた時にはもう日が傾き初めていた。  あの店は不思議な空間だった。初めて行った場所なのにどこか懐かしいような気がする。それは、コーヒーとケーキの美味しさのなせる技かもしれないし、店の雰囲気のせいかもしれない。磨りガラスから入ってくる明るい光と、ポタポタと落ちるコーヒーはなんとも穏やかな気分にさせた。そして、店にいた少女と穏やかそうな男性と――  試験が明けたら、また行ってみようか。と、つらつらと考えながら、陽向は郵便受けを開く。中に入っていたのは、スーパーのチラシが何枚かと、化粧品のダイレクトメール。そして、『大野 陽向 様』と書かれた空色の封筒がそこにはあった。
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