第二章

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第二章

「ねぇ陽向、試験どうだった?」  チャイムが鳴り止まぬうちに、前の席にいた女子学生が振り向いた。試験が終わった教室は席を立つ学生達の椅子を引く音や、お喋りで急に騒がしくなる。 「微妙。六割はできてると思うから、単位は取れるだろうけど。まどかさんは?」 「似たようなもん。まー、単位落とさなきゃいいの。落とさなきゃ。済んだことは忘れよう」 「そうだね」  と応えながら、陽向は筆記用具をペンケースにしまい、持ち込んだ教科書とノートを纏める。ここのところ勉強どころではなかったから、教科書とノートの持ち込み可の試験で助かった(とはいえ、それでも試験の出来はあまり芳しくなかったが)。 「さ、おなか空いちゃった。学食いこ?」  まどかと連れ立ち、陽向は教室を出た。円城まどかとはこの春、講義で一緒になった。知り合ってから日は浅いが、まどかはそうした細かさを気にしないようだ。初回の講義で隣の席になって以来、まどかの方から「ねぇねぇ」と話し掛けてきて今に至る。  友人を不要と思っているわけではないが、純が亡くなって以来、陽向にはどうにも友人というものがよくわからない。高校まではそれでもクラスがあり部活がありと必然的に友人を作る機会があったが、大学はクラスや何らかのグループ単位で活動することは少ない。友人を作る機会は少なく、また周りも高校までの頃のように友人同士グループを作ってべったりしているということはあまりなかった。大学のこの環境は寂しくもあるが、気楽だった。そのような中で何かと気にかけてくれるまどかの存在は、最初こそ戸惑ったが、今ではありがたいものとなっている。 「円城! 経済学のノートない?」 「ごめん、今年とってなーい」 「まどか、来週の日曜にテニスの試合があるんだけどヘルプこない?」 「悪い、パス。バイトだわ。また今度ね」  まどかの交友関係は相当に広いようで、校内を歩いていると様々なところで声が掛かる。まどかは、学年としては陽向の二つ上になるからだろうか。まどかと知り合った直後はそう考えたこともあったが、今では違うとわかる。まどかの交友関係が広いのは、まどかのその性格故だろう。明るく、面倒見が良いまどかは誰とでもすぐに親しくなれる。  学年が異なると、同世代の友達との付き合いとはまた違った関係になる。あくまで、まどかは陽向よりも年上なのだ。友達としては対等だが、まどかは年長者として振舞うし、陽向もときにまどかを立て、甘える。一線を引いているようにも見えるが、かえってお互いの立場を考えることができる。陽向にはそれが、同世代の友達と時に無遠慮ともいえるような関係になってしまうよりも付き合いやすかった。  校舎を出ると、陽向は日射しに目を細めた。 「今日は暑いねえ」 「うん」 「まだ七月の半ばだっていうのに、これじゃあ参っちゃう。学食着くまでに溶けそう」  梅雨明けもまだだが、この何日かよく晴れた暑い日が続いていた。今日もよく晴れ、アスファルトの舗道が夏の始まりの日射しを照り返している。もうそろそろ正午になる頃だが、まだまだ暑くなりそうだ。 「あ、そうだ。この前、今度映画観に行こうって言ってたじゃん? 今週の日曜とかどう? 試験も終わったし、映画観て、かき氷食べにいくのとかどうよ?」 「今週の日曜か……」  ごめん、と陽向は申し訳なさそうに呟いた。 「ちょっと、しばらく実家に帰ろうかと思って」 「じっかあ!?」 「そう、実家」  亡くなった筈の純から最初に手紙が届いてからそろそろ一ヶ月――手紙は今も届いている。数日おきのこともあったし、一〇日以上間が空いたこともあった。手紙の届く日に何の規則があるのか陽向にはわからない。ただ、暫く手紙の届かない日があって、手紙の存在を忘れそうになると、また新しい手紙が届く。その繰り返しだった。手紙の内容は最初の頃から変わらず、当たり障りのないものだ。 『ひなた ――』  手紙は、時に陽向の様子を訊ね、時に昔の想い出を語っていた。たった一言、『しっかり食べて! ちゃんと寝て!』とだけ書かれていることもあった。その手紙を郵便受に見つけた時は、誰のせいで寝付けないと思っているんだ!? と思った程だ。  警察に相談しようかとも考えたが、どう説明しようかと考えたらそれはとても難しかった。亡くなった友人から手紙が届いて困っている、なんて相談しても信じてもらえないだろう。 「実家、何かあったの? 大丈夫?」 「ああ、大丈夫大丈夫。何かあったとかじゃないんだけど」  手紙から逃げるにしても、誰が差出人なのか突き止めるにしても一度実家へと戻るべきだった。陽向も、純も、実家のある街で生まれ、育った。東京には純を知る人はいない。仮に、昔純が書いた手紙を今投函しているとしても、それをする誰かは東京ではなく実家のある街にいるはずだ。とはいえ、それをそのまままどかに伝えるわけにもいかない。 「ゴールデンウィークもバイトだなんだでなんとなく帰りそびれちゃったから、久しぶりに帰ろうかなって。今はバイトも暇だから簡単に休み貰えたんだけど、八月はまた結構忙しくなりそうだから、ゆっくりできるのって今のうちくらいだなって」 「そっか」 「せっかくなのにごめん。また東京戻ってきたら遊んで」 「オッケー。戻ってきたら連絡してよ」  まどかの誘いを断るのは心苦しかったが、まどかのことだから陽向がいなくとも他の友人と上手くやるだろう。  ――と、陽向がまどかと別れたのが昨日のこと。 「……寝すぎた」  慣れ親しんだ実家の自分の部屋で陽向は目を覚ました。八時過ぎには目覚まし時計を掛けていたのだが、どうやら止めてまた眠ってしまっていたらしい。時計はすでに一〇時三〇分になろうとしていた。東京よりも涼しいからか、それとも実家に帰ってきて気が抜けたのか、昨日、今日と寝すぎてしまっている。折角の涼しさも、太陽が昇りきった今では暑さにあまり変わりはない。  まだ眠い目をこすり、寝間着代わりにしているTシャツと短パンのまま居間に顔を出すと、母が出掛ける支度をしていた。父はもう仕事に行ったのだろう、姿はなかった。 「おはよう」 「おはよう。もうそろそろ昼よ。よく寝るわねぇ」 「だって、眠いんだもん」  言い訳じみている。と、思いながらも陽向はそう返した。試験も終わり、久しぶりに帰ってきたのだから少しくらいゆっくり眠ってもいいだろう。  陽向は冷蔵庫を開けると牛乳パックとコーヒーのペットボトルを取り出した。ガラスのコップに牛乳を注ぎ、そこにコーヒーを入れると一気に飲み干す。少し冷えすぎているくらいだが、暑さと睡眠で干からびた喉には丁度良く、美味しい。 「どこか出掛けるの?」 「パート」 「パートぉ?」 「そう。今、毎日午後から図書館の受付やってるの」  ふうん。と陽向は頷いた。陽向がまだ高校生だった頃、母親は専業主婦だった。一体いつの間にパートを始めたのか。年末年始は帰省していたが、その頃は母親がパートに出掛けていた記憶はない。ここ最近始めたのか、以前からパートをしていたが陽向がそれを知る機会がなかったのか。家族とはいえ、離れて暮らしていると知らないことが増えていく。 「夕方には帰ってくるから。冷蔵庫の中のものは適当に食べて大丈夫よ」 「はいはい」  じゃあね。と、出掛ける母親を見送り、ついでに陽向は郵便受を覗く。今のところ、実家にはあの手紙は届いていない。手紙の主が陽向の居場所を察知していないからなのか、陽向以外の誰かに見つけられるのを恐れているからなのか、それとも他に何か由があるからなのか。理由はわからなかったが。  トーストとバナナ、ヨーグルトで朝食を済ませると、陽向も行動を開始した。顔を洗って着替えると、家を出る。母親がパートを始めていたのは驚きだったが、好都合だ。特に詮索好きな母親というわけではないが、突然帰ってきた娘が頻繁に家から出掛けているのをみれば気にするだろう。その点が陽向の気掛かりだったが、その心配をする必要もなくなった。 「いってきます」  と誰もいない家に向かって言うと、陽向は玄関の鍵を閉める。支度をしていたら時刻はいつの間にか一二時近くなっていた。  なるべく日陰となっている場所を選んで陽向は歩く。今歩いている道を道なりに真っ直ぐ一五分程歩くと、中学校に着く。陽向と純が通っていた中学校だ。  平日のお昼近くだからだろう、道を行く人の姿は少ない。大学は試験が終わった者から順次休みに入っているが、近所の小学校はまだ授業が残っているのだろう。もう何日かしたら、暑さをものともせず遊びに出てくる子供達の声で賑かになるだろうが、今はまだ静かだ。中学校も試験休みのはずだが、中学生になると小学生達のように暑い中でも元気に遊び回るということはあまりしない。今頃、友達同士連れ立って、涼を求めて近くのショッピングセンターに行っているか、図書館に集まって夏休みの宿題を済ませているだろう。  陽向が中学校を卒業してからもう丸四年と少しが経った。今更、中学校に何か用事があるわけではない。だが、純のことを考えるならば、中学校は避けて通れないものだ。だからといって、中学校に行ったところで何があるわけではないが、一度中学校をこの目で見ておきたかった。  純とは小学校、中学校と同じ学校に通っていたが、小学校の頃は一度も同じクラスにならず接した記憶はない。親しくなったのは中学校に入り、同じクラスになってからだ。 『ねえ、消しゴム二個持ってる?』  というのが、記憶にある限り、純との初めての会話だった。入学式の翌日、まだ授業も始まらず退屈な説明会が続く中、担任の先生が黒板に板書をしている隙に、隣の席からこっそりと声をかけられた。 『あるけど……? どうかしたの?』 『忘れちゃったの。もし二個持ってたら、今日一個貸してもらえないかな?』  その日、消しゴムを二つ持っていた陽向は(よく物を無くす陽向は、消しゴムやシャープペンシルは大体筆箱の中に二つ以上入れておくようにしていたのだ)、純に一つ貸した。それが純と親しくなる切欠だった。もしあの日陽向が消しゴムを二つ持っていなかったら、純と親しくなったかはわからない。  快活で誰とでも素直に接する純は、小学校の頃から同学年の間ではちょっとした有名人だった。『純ちゃん、純ちゃん』、と男女問わず様々な生徒から慕われ、純の周りには沢山の人がいた。陽向には、それはどこか遠い世界の出来事のように見えていたのだ。  中学校が近付くと、ピピーッとホイッスルの音が聞こえた。学校自体は試験休みとなっていても部活動はある。校庭に張られたネットの向こう側では、運動部の生徒がジョギングをしていた。暑いのも運動も苦手な陽向にとっては信じられないが、彼ら彼女らにとってはこの程度の暑さはどうということはないのかもしれない。熱中症に気をつけて頑張ってほしいとぼんやりと思う。  校庭をぐるりと回ると、端の方からはきゃあきゃあと楽しそうな声とバシャンと水の跳ねる音がする――水泳部だ。今は休憩中なのだろうか、コースを泳ぐことはせず、水を掛け合ったり、のんびり寛ぐようにして泳いだりしている。この暑さでは水に入るのはさぞ気持ち良いだろう。 「はい、休憩終了! 一回全員プールから上がって。次は背泳ぎのタイム計るから、各コースに並んで――……」  何とはなしに水泳部の練習風景を見ていたら、指導をしている女性がこちらに手を振ってきた。学校の先生だろうと大して気にも止めていなかったが、よくよく見ればその女性は先生にしては随分と若い。陽向と同じ歳くらいだろう。今の学校に陽向に手を振ってくるような人はいるだろうか。考えてみたが心当たりはない。心当たりはないが、大して大きくない街だ。陽向が覚えていなくとも、向こうが陽向のことを覚えている可能性は十分にある。申し訳ないなと思いながら、陽向は愛想笑いを浮かべ、頭を下げてその場を離れた。  いくら卒業生とはいえ、校舎の中には簡単には入れない。主事室に行って来校の手続きをすれば入れるのだが、明確な目的もないのにそこまでするのは気が引けた。校舎の中には入れずとも、部活動をしている生徒達の声を聞くとはなしに聞きながら学校の敷地に沿って歩いていると、思いの外色々なことを思い出す。  ふと、天文部はどうなっただろう。と考えた。  天文部は当時からすでに部の存続に必要な定員数を割るか、割らないかという人数で活動をしていた。廃部にしていないのはひとえに『望遠鏡等の機材があるので廃部にするのが勿体ないから』だという。要するに、学校側としては面倒くさかったのだろう。だが、あれから数年経ち機材も大分古くなっている。機材の処分とともに天文部も廃部になってしまったかもしれない。  ――……天文部は、純ちゃんが入ろうって言い出したんだよね。  陽向は特別星や宇宙に興味があったわけではない。星や宇宙だけでなく、これといって興味のあるものがなかった。部活動は必須ではなかったが、入らないのも何だか勿体ない気がして、どの部に入ろうかと決めかねていたのだ。 『ひなたはさあ、部活もう決めた?』  その日、たまたま日直だった二人は、残って学級日誌を書いていた。 『まだ決めてないよ』 『ふうん。あ、そこ、字間違ってるよ』 『ありがとう。純ちゃんは、部活どうするの?』 『私もまだ決めてないんだよ。何か、入りたいなって思ってるのはあるの? テニス部とか?』  テニス部は女子生徒の間で人気の部活の一つだった。男子の先輩が格好いいだとか、スコートが可愛いだとか理由は様々だったが、陽向にはどれも理解ができなかった。が、これは何もテニス部に限った話ではない。 『運動部はちょっと……運動、苦手で』 『なるほど。じゃあ文化部かあ、何がいいかなあ』  純は天井を見上げて考え込む。変なの。と、陽向は思った。陽向は運動が苦手だが、純は違う。純は小学校の頃はリレーの選手を何度も努めていたし、この間のドッジボール大会でも大活躍だった。純ならどの運動部も大歓迎だろう。それに何より、何故純に部活の心配をされているのか。心配されるほどぼんやりしているようにみえるのだろうか、と多少なりとも落ち込んだ陽向をよそに、純は『そうだ!』と急に頭を戻した。 『天文部とかどう? 天文部なら運動するわけじゃないし、家だとなかなかできないことしそうだし、面白そうじゃない?』 『……へ?』 『とりあえず、今週仮入部いってみようよ。合わなさそうだったら止めればいいし』 『え、ちょっと、私も? 私、純ちゃんと同じ部活に入るなんて、』 『いいじゃん、いいじゃん。一人より二人の方が楽しいって』  と、言い出した純に半ば引き摺られるようにして天文部に仮入部をし、そのままなしくずし的に正式に入部してしまった。結局、卒業するまで三年間ずっと天文部に在籍していたことを考えると、なんだかんだで陽向に合った部活だったのだろう。  同学年の部員は陽向と純だけだったが、入部した時には先輩達が、二年生に進級してからは後輩達ができて、和気藹々とし楽しかった。観測会と称して学校に泊まりこんだり、合宿に行ったりもしたものだ。だが、純が亡くなった後すぐに引退の時期を迎えてしまい、その後のことは陽向にはわからない。  後輩達の何人かは高校でも見かけたが、会えば挨拶交わす程度で特に親しくはしなかった。今考えれば薄情な気もするが、高校に入ったらお互いに部活も変わってしまったし、学年も異なり接点がなくなってしまったのだから仕方がない。  顧問の先生はまだあの学校にいるのだろうか。公立の学校だから、他の学校に移動してしまったかもしれない。そうでなくとも、もう定年退職をしてしまったかもしれない。実際の年齢はわからないが、陽向の在学中から『そろそろ定年では?』と囁かれていたのだ。まだ学校にいる方が不思議な気もする。顧問の先生は、生徒の話を良く聞いてくれる、穏やかな良い先生だった。  ――顧問の先生は、一人だけだっただろうか。  一瞬、頭の中に若い男性の顔がよぎる。柔和ではあるが、特徴の掴み難い顔だ。どこの誰かもわからないが、その人が部室の中にいる光景はまるであたかも過去に見てきたもののように思い出せる。初夏、丁度今時分の季節だった。お昼休みに部室へといくと、その人がのんびりとお茶を飲んでいて―― 「……」  いや、顧問の先生は一人だ。何度考えても、天文部の顧問はあの初老の穏やかな先生一人だけだ。何か他の記憶と混ざってしまっているのだろう。  もしかしたら、陽向が思う以上に陽向自身が疲れているのかもしれない。約一月、手紙に悩まされながら大学の前期試験も受けていたのだから、疲労が想像以上に大きくても不思議はない。  陽向は脚を止めた。一旦、帰った方が良さそうだ。これから午後にかけて日射しは益々強くなるだろう。暑さも増してくるに違いない。手紙のことは気にはなるが、暑い最中にわざわざ歩き回ることが得策とは思えなかった。  着た道を戻り、陽向は一件の家の前で脚を止めた。来るときは気付かなかったが、その家の一階部分にはシャッターが降りていた。シャッターに貼られた紙には『しばらくお休みします』とあるが、そこに記してある日付は去年のものだ。たしか、その家は一階部分を改造してお店にしていて、ちょっとした雑貨と駄菓子を売っていた。家自体は空き家ではなさそうだが、シャッターが開くことはなさそうだ。 「閉まっちゃったんだ……」  この店は学校帰りの子供達がよく立ち寄る場所だった。小柄なお婆さんがレジの奥の椅子にちょこんと座っていたのを覚えている。校則で買い食いの類は禁止されているにも関わらず、皆、学校が終わるとこの店に立ち寄って、ジュースだのお菓子だのを買い、食べながら帰ったものだ。勿論、陽向も例外ではない。学校からの帰り道、純や友人達とこの店によく立ち寄った。こんなふうに暑い日なんかはアイスを買って食べながら帰るのが楽しみの一つだった。暑い中、シャリシャリとしたアイスは美味しかったけれども歯に沁みたのを覚えている。  コンビニやスーパーの数が増えて経営が苦しくなったから閉じたのか、それとも他に何か事情があるのか。陽向にはわからないが、こうして日常の一部だった場所が失われるのは寂しい。 「このお店は、ずっとお婆さんが一人でやっていたんだけど、去年ぎっくり腰になってしまって」 「!?」 「継ぐ人がいないから閉じることにしたって。下のお孫さんが大学出たら継ぎたいって言ってるみたいだけど、卒業まであと一年ちょっとあるからどうなることやら」  と、どこからともなく現れた少女は話し始めた。ぼんやりと店を眺めていたせいか、少女が現れたことに陽向は気付かなかった。脚を止めるまで周りには他に人の気配はなかったはずだ。まるで虚空に突然現れたかのように少女はそこにいた。 「お店は閉まってるけど、お婆さんの腰は良くなって、今は週に三回デイサービスに通ってる。最近のブームはお菓子を掛けたカードゲームとカラオケ。元気一杯だから心配しないで」 「……」 「心配だったんじゃないの?」  少女は不思議そうに首を傾げた。その少女が純なのか、この間東京の不思議な店にいた少女なのか、それとも他の誰かなのか、陽向にはわからない。だが、その少女は見れば見るほどあの頃の純によく似ていた。くりっとした瞳に、意志の強そうな口元。髪はいつもショートボブにしていた。明るいところだと濃い茶色にみえるほどの髪色だったが、純本人はその髪色をあまり気に入っていないようで、『中学出たら絶対髪染めてやる!』とよく言っていた。  何もかもがあの頃の純にそっくりだが、背には違和感が合った。目の前の少女は陽向よりも少し背が低く、陽向は少女を微かにだが見下ろす形になっている。あの頃、純と陽向の背はほぼ同じくらいだったのに。 「――……なんでここにいるの?」 「この辺りに用事があったの。この間はどうも。ご来店ありがとうございました」 「覚えてるの?」 「滅多にお客さんはこないからね。来た人のことは大体覚えてるよ」  どうやら、先日不思議な店にいた少女のようだ。東京で出会った少女にまた出会うなど、偶然にしては気味が悪い。少女が純に似すぎていることもあって、まるで純から追いかけられているかのようだ。  陽向が訝しんでいるのを見てとったのか、少女は「本当に用事があってきたんだってば」と、続けた。 「別に尾行とかしてるわけじゃないよ。もしそうなら、こうやって話しかけたら意味ないじゃない」  正論なのだがどうにも釈然としないものがある。それはやはり少女が純に似ているからか。 「ねえ、あなた、この辺りの人? この街に昔親戚とかいた?」 「別にこの辺りに住んでいるわけじゃないよ。親戚はどうだろう? 大して興味ないから知らないな」 「――……あの」  驚かないできいてほしいんだけど。と、前置きし、陽向は続ける。 「あなた、私の友達にそっくりなの。その子は――純ちゃんっていうんだけど、もう何年も前に亡くなってしまって……でも、もしかしたら……親戚、か何かなんじゃないかなって」  もしかしたら純ちゃんなんじゃないかなって。とは、陽向は訊けなかった。いくら少女が純に似ているからといって、そう訊ねるのは少女にも純にも失礼なような気がしたのだ。  少女は答えない。何を言われたのかよくわかっていないのか、キョトンとしたような表情で陽向を見つめ返してくる。それを見ていたら、何だか自分がとんでもなく馬鹿馬鹿しいことを訊いてしまったような気になって、陽向は小さく「ごめん」と呟いた。 「ごめんね、変なことをきいてしまって。今の忘れて」 「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」  少女の言葉に安堵したものの、続いて発せられた台詞に陽向は息を呑んだ。 「約束したのに、覚えてないんだね」 「やくそく……?」  陽向は呆然と少女を見つめる。少女は陽向に微笑みを返すと、「まあいいや」と続けた。 「約束の日はもうすぐそこだから。またね」  と手を振り、少女は去っていく。少女は突然虚空に消えるわけではなく、自らの脚でしっかりと歩いて去っていったのだが、陽向にはその後ろ姿を追いかけることはできなかった。
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