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第三章
サアサアと雨が降る。自室のベッドの上から窓の外を眺め、陽向は「よく降るなあ」と呟いた。ベッドの上に投げ出した足の上には中学校の卒業アルバムが開いたままになっている。アルバムを開いたはいいが、窓の外が気になり、頁を捲る手はすっかり止まっていた。
日付が変わった頃から降り出した雨は、朝になっても降り続いていた。ここのところしばらく晴れた暑い日が続いていたので、文字通り恵みの雨だった。天気予報によれば、雨は今日の午後には一旦上がり、その後今週一杯はまた晴れが続くらしい。もしかしたら、それで梅雨明けとなるかもしれないとの予報だった。予報はあまり当てにはならないとわかっているし、長く雨が続くのも嫌だが、もしかしたらこれで梅雨が終わりかと考えると少し寂しい。
雨の音に耳を傾けながら陽向は目を閉じる。サアサアと降る雨の音に混じって、タンタンタンタンと水が硬い物を打つような音も聴こえる。庭の車庫の屋根にしているアクリル板が水を弾いているのだろう。雨粒の大きさによって音もテンポも変わるのが面白い。こうして雨の音を聴くのが、陽向は嫌いではないのだ。
『よく降るねえ』
と、純が呟いた。その日、お昼過ぎから黒い雲が現れ始めた空は、午後三時を過ぎると真っ暗になり、雨が降り出した。降り出した雨は夕方五時三〇分を回っても止む気配がなく、部活を終えた後も陽向と純はこうして部室に残って雨が上がるのを待っている。
濡れてもいいや、と少し前に一、二年生達は帰っていったが、それが正解かもしれない。夏の近いこの季節、多少濡れたところで風邪を引いたりはしないだろう。日が大分伸び、明るい時間が増えたせいでかえって帰宅する機会を逃してしまった。暗くなる前は帰らなくても良いような気になってしまう。
『まあ、雨が降ったら星が綺麗に見えるよ』
『上がれば、でしょ。上がれば』
『そのうち上がるって』
大気中の塵や埃が洗い流されて、雨上がりの空は普段よりも星が綺麗に見える、らしい。よくいわれることだが、普段と比べてどうかなど裸眼ではよくわからない。試してみようと、以前学校に泊まり込んで観察してみたがやはりよくわからなかった。よくわからなかったが、いつもより綺麗に見えたような気はした。要するに、心の問題なのだ。綺麗に見えると思って見たから、綺麗に見える。そう結論付けて、『これでは天文部失格だね』と笑ったのだ。
『ねぇ、――先生』
と純が部室の奥に向かって声をかける。部室の奥の方は機材が沢山置いてありよく見えない。だが、機材の間から『はい?』と声が聞こえた。まだ若い、大人の男性の声だ。声の主はひょいと出てきたが、暗がりのせいか表情までは見えなかった。
『雨上がりの空は星がよく見えるって本当ですか? 前に試してみたんだけどよくわからなくて』
『そうだねえ』
声の主は一瞬間をおき、『ここじゃあ、よくわからないかもしれない』と続けた。
『街中だと明るすぎて、普段から星なんてあまりよく見えないからね』
『じゃあ、もっと田舎の方とかいかないといけないってこと?』
『そう。山や海などあまり人間のいないところなら尚良いだろうね。まあ、そのようなところは雨上がりでなくとも星が綺麗に見えるものだけども』
『山……』
純は少し何かを考えるように、「んー……」と言いながら首を捻る。それを見かねてか、――先生は声をかけた。
『この辺りだと、ほらあの、学校の裏の方にあるやつとか』
『あの程度の山でいいんですか!?』
学校の裏手から少し歩いたところには山ともいえない山がある。なだらかで、起伏もあまりない山だ。中腹に古い神社が一つある他はこれといって何があるわけでもない。麓から山頂までは一本道があり、この辺りの小学生は必ずといっていいほどこの山を遠足で登る。小学生でも行って帰ってこられるような道だ。犬の散歩をする人も多く、一般的な山のイメージからするとやや物足りない。
『星を見るのに邪魔するものがなければいいからね。街灯や家の灯りがない場所は最適だよ。まあ、山だと樹が邪魔かもしれないけど』
『じゃあ、じゃあ! 今度試してみたい! 神社の境内なら樹もそんなにないし、機材も少しは運べるし』
『え、もしかして、歩いて運ぶの?』
と、否定的な声を上げたが、陽向とて夜の観測自体が嫌なわけではない(重い機材を運びたくないだけだ)。部活動とはいえ、友人と夜に星を見にいく――それは中学生にとって特別なことのように思えたのだ。
「……」
寝ていた。それも、とてもよく寝ていた。ガクンと首が落ちて陽向は目を覚ましたが、首がまだ少し痛む。首の付け根をさすりながら、陽向は顔を上げる。投げ出した足の上には卒業アルバムが開いたままになっていた。
夢を見ていた。中学三年生の頃の夢だ。あの頃、夏に入る前に陽向は純と計画を立てていた。『夏になったら、夜に星を見にいこう』――結局、純は亡くなったのでその約束は果たせなかったのだけれども、当日までに必要な物を揃えて、何時に集まって、誰がどのような役割で……と、あれやこれやと計画を立てるのは楽しかった。
「……――先生って、誰よ?」
夢の中では、若い男性を「先生」と呼んでいたが、あれは天文部の顧問の先生ではない。天文部の顧問の先生は、初老の男性一人だけだ。他に顧問の先生はいなかった。そもそも、校内に若い男性の先生は数えるほどしかおらず、その誰もを陽向は記憶している。夢に出てきた男性はその誰とも違っていた。
足の上に開いたままの卒業アルバムを捲り教職員の箇所を確認するが、やはり先程夢に出てきた男性はいなかった。小学校や高校の頃の記憶と混ざっているのかとも考えたが、小学校、高校と振り返ってもあの男性がいた記憶はない。今まで出会った人の中で一番雰囲気が似ているのは、この間、純によく似た少女が働いていた店にいた男性だ。きっと、あの少女のことを気にしているから、夢にまで見てしまったのだ。
陽向はそっと溜息を吐いた。
『約束したのに、全然覚えてないんだね』
と、昨日会ったあの少女は言っていた。あの少女と陽向は何の約束もしていない。だが純とならば――? 陽向が忘れてしまっているだけで、純とならば何か約束をしたかもしれない。あの少女が何者かはわからないが、もし純との約束を忘れてしまっているなら、それを思い出したかった。
卒業アルバムのページを捲っていくと、陽向のクラスの頁に辿り着いた。クラスの集合写真には空いた部分に丸枠が一つある。丸枠の中には少女が一人いて、こちらを見つめていた。――純だ。うっすらと微笑みを浮かべてはいるが、他の生徒達がとびきりの笑顔なのに比べると純のそれは控えめだ。夏に亡くなった純はクラスの集合写真にはいない。それは仕方のないことだが、どうせならばもっと良い写真を用意してくれれば良かったのに、と陽向は思う。おそらく生徒証の写真を流用したのだろう、純の微笑はややぎこちない。純は笑顔がとても素敵なのに。
アルバムの中の陽向はというと、ぼんやりとした表情をしていた。満面の笑みではないが不機嫌なわけではない。どのような表情をすれば良いかわからないかとでもいうようだ。事実、あの頃、陽向はどのような表情をしていれば良いのかわからなかった。純がいないのに笑顔になることはできなかったし、だからといっていつまでも泣いてふさぎこんでいるわけにもいかなかった。
陽向はそっと丸枠を撫でると、アルバムの頁を捲った。入学式から始まって、一年、二年、三年と各学年の行事の写真が並んでいる。体育祭、文化祭、修学旅行、球技大会、遠足、林間学校に合唱コンクール……他にもたくさん。たった三年間でよくもまあこんなに行事を詰め込んだものだ。三年間、純とは同じクラスだった。おかげで、どの行事を思い出しても純のことを思い出す。
「……楽しかったなあ」
いつだって馬鹿なことをして笑っていた。中学生なりに、親や先生との間にある軋轢に悩んだり、将来のことを考えてどうしようもないほどに不安になったりもしたけれども、友達と笑っていた間だけはそのようなことを忘れていられた。あの頃、まるでこの世の終わりのように悩んだことも、時が経てば解決したり、どうということのないものに変わったりし、自然と消えていった。今では友達と笑いあった記憶ばかりだ。いずれ、時が経てばそれさえも忘れてしまうのかもしれない。人間という生き物は忘れていく生き物だから仕方のないことだけれどもそれは何だか寂しい気がした。――忘れてしまうと、純という人間が一五年間生きた痕跡が何もかもなくなってしまうような、そんな気がしたのだ。
最後の頁まで捲ると、陽向は静かにアルバムを閉じた。これ以上アルバムを眺めていても、思い出ばかりが浮かんできて、純との約束を思い出すことはないだろう。ベッドの上から立ち上がり、陽向はアルバムを本棚へと戻した。
ふと見やれば、ベッドの隅に投げ出してある携帯電話のライトが点滅している。確認すると、アルバイト先の坂崎からだ。音を切っていたため気付かなかった。
『来週バイトどうすんの? 来られないなら連絡くれー。
来週暇だから、変わりに出るよ』
なるほど。確かに、坂崎は『先輩』だ。自由に好き勝手やっているようにみえて、彼なりに後輩のことを気にかけている(もしかしたら、単に暇すぎてアルバイトの日数を増やしたかったのかもしれない)。
今週はまだ少し残っているが、いつこの状況から抜け出せるかわからない。素直に坂崎の言葉に甘えることにした。
用の済んだ携帯電話を再びベッドの上へと放り、陽向は窓へと寄る。いつの間にか、窓の外の雨は上がっていた。
雨上がりの空気は冷たく、湿っていた。ここのところ空気中に溜まっていた熱は雨ですっかり洗い流されたようで、大分涼しくなっている。だがこの涼しさも今だけのものだろう。今はまだ厚い雲の向こうにある太陽が顔を出せば、またじわりじわりと暑くなってくる。
雨が上がったからと、陽向は外へと出た。外へと出たからといって何かが変わるわけではないのだが、家でじっとして考えこんでいてもやはり何かが変わるわけでもない。外へと出れば、少なくとも気分は変わる。ならば、外へと出ないよりも出た方が良い。それに、歩くというのは陽向にとって考え事をするのに丁度良かった。人の数の差のせいか、この辺りの道は東京と違って歩きやすい。雨が上がったばかりだろうか、道を歩く人の姿は普段よりもさらに少ないようだった。
数人の人とすれ違いながら、陽向は中学校まで向かう。校庭には部活動をしている運動部員の姿はなかった。あの雨で校庭はぬかるんでいるから、運動部の練習には使えないだろう。プールの方にも誰もいない。静かだった。誰もいないプールの水面は風を受けてゆらゆらと揺れている。微かに塩素の臭いがして、本格的な夏はもうすぐそこなのだと教えてくれる。
陽向は学校の敷地に沿って歩き、校舎の裏手へと出た。そこから歩けば一〇分もしないで山に着く。あの山にも正式な名前があるのだろうが、陽向は知らない。陽向も周りの大人も、この辺りの人間は皆あの山のことを『山』や『裏山』と呼んでいて、それで通じてしまっていたから、正式な名前を覚えなかった。
山の入口(小学校の遠足などの時はここから山に登った)に立つと、陽向は山を見上げた。この時間は犬の散歩に来る人も、遊びにやってくる小学生もいないのだろう、山はひっそりとしている。時折、風が葉をサワサワと揺らして通り抜け、虫や鳥の声がする。それはこの境から向こうは人の出入りはあれども、人の領域ではないのだというようだった。
中学三年生の夏、天文部の皆でこの山に登るはずだった。学校と保護者の許可を取って、八月の中頃の夜に。雨上がりの日にはならないだろうけれど、綺麗な星空を皆で見られればそれでいいや、という気軽なものだった。
純が亡くなってその計画はなくなった。『皆で山に登ろうよ!』と、最初に言い出したのが純だったせいか、純の訃報が知らされると、そのままなし崩し的に計画そのものが白紙になった。仮に、純が言い出したものでなくともきっと中止になっただろう。同じ部活の仲間が亡くなってすぐにわいわいとイベントを楽しむような気分にはなれない。せっかく準備してきたことがすべて泡となってしまう虚しさは、純の訃報とは別によく覚えている。――計画はなくなったはずなのに、何故か陽向にはこの山に登った記憶がある。それも、夜に、純と一緒に。
『ねえ、夜の山って結構不気味……』
『まあね。でも一本道だし大丈夫でしょ。熊とか出るわけでもないしさあ』
生温い風が吹いた。昼間は気にならない葉の擦れる音がやけに大きく聞こえる。背筋には冷たい何かが走ったような気がし、寒くもないのに二の腕には鳥肌が立ってきた。
『ほら懐中電灯もちゃんと持ってきてるし、大丈夫。一五分くらいで神社に着くし、早く行こ? 着いたら、――先生が待ってるしさ』
チカ、チカと純が暗い道を照らす。『そうだね』と頷いて、二人は山へと足を踏入れた。
おかしい。この山には小学生の頃に何度か登ったが、中学生になってからは登っていない。天文部で山に登ろうよ、と純が言い出し、何年かぶりに山に登る予定だった。だからこのような記憶があるはずがない。
チリンチリンと自転車のベルの音がして、陽向は慌てて道の端に避ける。自転車は陽向の今まで立っていたところを通りすぎて行く。また夢でも見ているような気分だったが、生憎これは現実だった。
陽向はもう一度山を見上げた。山の入口から一歩踏入れようとし、迷い、踵を返す。今、この山へと登る気にはなれなかった。
山から引き返した陽向は真っ直ぐに家へとは帰らず、街の中を無目的に歩いていた。このまま家に帰ってじっとしていたら、違和感と焦燥感でおかしくなってしまいそうだった。外を歩いていれば解決するものでもないが、何もしないでいるよりかははるかにマシだった。今までは誤解か夢だと思っていた記憶の齟齬は、今やはっきりと陽向の中に存在している。昨日再び出会った少女のこともあり、気のせいだと笑い飛ばしてしまうことはできなかった。
歩いているうちに川へと出た。街中にはそれほど大きくはないが川が通っている。大昔、この川の流れに沿って街は発展したらしい。その名残か、今も川沿いには商店が多く建ち並んでいる。この辺りは街の中でも賑やかな区画だった。川の水深は浅く、陽向の胸ほどだろうか。対岸までは数メートルから、広いところでも一〇メートルと少し程。流れも穏やかだ。とはいえ、決して泳げるような川ではない。浅い水深と穏やかな流れでもって、川底にはゴミが溜まりやすい。悪臭はないから水自体は然程悪くはないのだろうが、濁ってしまって底の方までは見えない。ここで泳ごうとは思えなかった。
陽向は川縁から川原へと降りていく。川原にはぽつん、ぽつんと人がいた。この川原はランナー達のトレーニングコースのようで、昼夜問わずランニングをしている人が多い。山よりも気軽に来られるからだろうか、遊んでいる子供達や学生の姿もある。実際、中学生の頃、陽向も遊びにくるのは山ではなく川原だった。中学に入ると学校が終わる時間が遅くなり、学校が終わった後に山にまで遊びに行く時間はなくなる。あの頃は、学校帰りに寄り道をしながらこの川原でいつまでも喋ったり、小石をどこまで飛ばせるかといった下らないことをしたりしたものだ。
だが、そうした想い出も中学三年生の夏で途切れている。
中学三年生の夏、純は亡くなった。
陽向は中学三年生の夏を、よく覚えていない。
今まで、陽向は中学三年生の夏をよく覚えていないのは、純が亡くなったことが大きすぎて記憶が飛んでいるのだろう、そう考えていた。陽向の祖父母も両親も健在で、それまで身近な人の死というものを経験したことがなかった。そこに突然、同級生の――それも、一番仲の良かった友達の死だ。混乱するなという方が無理だろう。
ほんとうにそうなのだろうか? 今ではそう考える。もしかしたら、何かとんでもない出来事があって、それで中学三年生の夏が――純の死があやふやになっているのではないか。昨日、今日と、断片的に浮かび上がってくる記憶をみるたびにそう思う。
もしかして、純が亡くなったということ自体が嘘なのではないか。何か事情があって、純は遠くに行ってしまって、成長も止まってしまった。でも、純は生きていて、陽向に会いに来た――約束とやらのために。そうであってくれたらどれほど良いだろう。しかし、それこそありえないことだと陽向は理解していた。
何度思い返しても、純は中学三年生の夏に亡くなっている。
天文部の顧問の先生は、初老の先生一人だ。
学校裏の山には、小学校の頃以来登っていない。
これらは間違いなく事実だけれども、それと同時に、部室には若い男性の先生がいた記憶も、純と夜に山へと登った記憶も朧気ながら存在する。
「……頭パンクしそう」
と呟くと、陽向は足下にあった小石を「えいっ!」と蹴った。小石は勢い良く川へと飛んでいき、ピシャッ、ピシャッと二度跳ねた後にチャポンと川底へと沈んだ。陽向の蹴った石を追うかのように、水面に小石が走る。小石は素早く、遠くに五度跳ねて、沈んだ。石の飛んできた方を見ると、陽向と同じ年頃の男性が川の方を眺めている。男性は陽向の存在に気付くとニッと歯をみせて人好きのする笑みを見せた。知らない男性かとも思ったが、その笑顔はどこかで見たことがある。
「大野さあ、随分、下手になったんじゃねえの? 前は蹴りでももっと飛ばせただろ?」
「……もしかして、ヨシフジ?」
「おうよ。さては忘れてたな?」
笑いながら、ヨシフジ――吉藤は陽向の方へと歩いてきた。近くで見ると吉藤の身長は陽向よりも大分高い。陽向の手一つ分は身長差があるだろう。陽向は吉藤を見上げ、笑った。
「これじゃあわかるわけないよ。中学の頃、ヨシフジの背って私達と大して変わらなかったじゃん」
「俺にだって成長期があるんだよ。まだ伸びてるからなあ。あと数センチはでかくなるかもしれん」
「いいなあ。私、あと三センチ欲しかったの。分けてほしいくらいだよ」
吉藤は純と同様、中学三年間陽向と同じクラスだった。小学校も同じところに通っていて、その頃からの付き合いだ。高校が別になってからは顔を合わせる機会もなかったが、中学まではそこそこ親しかった。こういうのを腐れ縁というのだろう。家が料理屋なせいもあってか、吉藤は人当たりがよく、顔も広い。加えて、当時、中学三年生男子としては小柄だった吉藤は、他の男子生徒のような威圧感がなく、女子生徒の中にも馴染んでいた。そのようなところも、陽向が親しくしやすかったのかもしれない。
「本当に久しぶりだな。中学卒業以来じゃないか?」
「そうだね。高校から別だったから。ヨシフジはよく私のことわかったね?」
「大野の親父さんはたまにウチに飲みに来てくれるからなあ。『陽向は全然変わってない』って言ってたし」
「お父さんってば……」
『よしふじ』という料理屋が、吉藤の家だ。小さな街の料理屋だから子連れで来る人も勿論いるが、実際は居酒屋に近い。町内会の付き合いなどで陽向の父は『よしふじ』を利用しているようだ。陽向もこの街に残っていれば、いずれ友人達と『よしふじ』に集まるようになったのかもしれないが、今のところそのような機会はない。
「それに、長谷川が――ああ、長谷川はウチにバイトで来てくれてるんだけど、大野のこと見たって言ってたから、そうか今こっちに帰ってきてるのか……って考えながら歩いてたら、大野がいた」
「長谷川って……長谷川綾ちゃん? 私、会ってないけど?」
「昨日、中学校の周りうろちょろしてたんだろ? 長谷川、今、昼間は中学の水泳部にコーチしにいっててるんだよ。それで、プールから大野を見かけたって。『手振ったけど、わかんなかったみたい』って言ってた」
「あれ、綾ちゃんだったの!? ……ぜんぜん、わかんなかった……」
陽向は呆然と呟く。言われてみれば、昨日手を振ってきたのは、どこかで見たような人だったのだ。少し距離があったからわからなくても仕方がないといえるかもしれないが、友達がわからなかったというのは少なからずショックだった。長谷川とも中学生の頃は仲が良かった。高校に入っても最初の頃は何度か連絡をとっていたのだが、日々の忙しさ故かいつの間にか疎遠になっていたのだ。
「まあ、長谷川はそういうの気にするようなタチじゃないし、大丈夫だろ。なんなら、今度ウチにくれば会えるぞ? 大野、ウチにきたことないだろ? 一杯サービスするから来いよ」
「残念。私はまだ未成年なのでした」
「まじかー」
「明日までだけど」
「ならすぐだろ。ていうか別にウチは酒しか扱ってないわけじゃないから、ジュースでも大歓迎だ。明日までってことは明後日誕生日か? ウチでパーティーでもするか?」
「いやいやそんな大層なもんでもないって。気持ちだけで十分だよ」
友達に誕生日を祝ってもらうのは嬉しいが、パーティーなんて気恥ずかしい。それも、長く連絡をとっていなかったのだから尚更だ。お互いに生活環境が変わってしまったのだから仕方がないこととはいえ、もう少しマメに連絡をとることもできたのではないかと自らの無精を後悔する気持ちもある。
「まあ、誕生日とか関係なしにいつでも来いよ。長谷川も喜ぶだろ」
「ありがとう。今度お邪魔するよ」
陽向は笑う。それを見た吉藤は、「ちょっと安心したよ」と言った。
「安心? 何が?」
「いや、ほら――……三年の夏以来、大野は元気なかったから。高校も俺達とは違うところだったから、どうしてるか全然わからなかったし。親父さんから東京の大学行ったってきいて、まあ元気でやってるんだろうなとは思ってたけど、聞いた話と実際に見るのとじゃあ、やっぱり違うだろう?」
どうやら、自分で思っていた以上に当時の陽向は落ち込んでいたらしい。当時の記憶は曖昧で、思い返すとただ漠然と悲しさだけが込み上げてくる。純を亡くして悲しいのは陽向だけではないのに、まるで陽向だけが一人で暗い穴の中に落とされたような気がして、周りのことなど何も見えていなかった。「ごめん」と、陽向は呟く。
「謝ることじゃねえよ。川瀬が亡くなって悲しいのは仕方ないだろう。大野なんて部活も一緒だし、一番仲が良かったんだから俺らなんかよりもずっと悲しくて当然だ」
「……」
やはり、純は亡くなっている。自らの記憶も、卒業アルバムも純は亡くなったと示している。吉藤も今、はっきりと純が亡くなっていることを告げた。
――じゃあ、あの子は一体何なのよ? と陽向は問を繰り返すが、答がわかるはずもない。
「そういや、ちょうど今くらいの時期だったな、川瀬が亡くなったの」
「……うん」
「もうそろそろ五年か。――早いな」
「そうだね」
もう五年なのか、まだ五年なのか、陽向にはわからない。五年という歳月は決して短いものではない。中学生だった陽向は大学生になったし、吉藤はあの頃と見違えるくらいに背が伸びた。綾の容姿は変わっていて陽向には誰だかわからなかった。五年という歳月は、それだけの変化を起こさせる。だが、それと同時に、純が亡くなってからの時間の流れは緩慢で、陽向には随分と長い時間が経ってしまったようにも感じられるのだ。
「大野はさあ、川瀬の式には行ったのか?」
問われ、陽向は首を左右に振る。こんなにも純の死を引きずるのは、葬儀に出ていないからというのもあるのかもしれない。『お葬式は遺された人のためにあるもの』、とはドラマなどでよく言われる台詞だが、その通りだと陽向は思う。何の別れもなしにある日突然その死を目の前に突きつけられても、実感など沸くはずもない。
吉藤は「俺も」と続けた。
「お墓参りくらい、いきたいんだけど」
「そうだよなあ。――クラスの誰も、川瀬の式にはいってない。墓の場所も知らない、か。川瀬の家は何だか色々複雑らしいっていうのは本当だったのかもなあ」
その話は陽向も少しだけ聞いたことがあった。純は自分のことをあまり話すような性格ではなかったから、本人から直接聞いたわけではない。口さがない噂話の類だ。陽向がそれを聞いてしまったのは偶然だった。
その日の帰り道、陽向は宿題のプリントを忘れたことに気付き、教室まで引き返した。学校を出てすぐのところで慌て引き返したのだが、すでに教室には生徒の姿はなかった。生徒の代わりに教室の中にいたのは数名の保護者だ。その日はたまたま保護者会がある日で、用事のない生徒達は教室から追い出されるように早く下校していた。保護者達はというと、保護者会の予定よりも少し早めに着いたのだろう、教室の中で雑談をしていた。
早くプリントを取って帰ろう、と教室の扉に手をかけた瞬間、声が聞こえた。
『川瀬さん、今日も欠席ですって』
『仕事だそうだけど、一体何の仕事なんだか』
『あそこの家、ご主人ももう長いこと帰ってきてないらしいじゃない?』
『東京にほぼ行きっぱなしみたいよ。一応仕事で、だそうだけど、どうなのかしらねえ』
『お嬢さんはとても良い子だけど、奥さんはちょっとねえ。困るのよね、クラスの役員も一度もやっていないし』
『あら、あそこ、お嬢さんは奥さんとの子供じゃないらしいじゃない』
それ以上聞いていられず、陽向はその場を駆け出した。結局、プリントを取ることはできず、翌日『宿題忘れ』となったが仕方がないことだろう。
「ヨシフジは、純ちゃんの家のこと知ってるの?」
「いや。知ってるってほど詳しくねぇよ。ただ、店にいると色んな人が来るからな。嫌でも、あれこれ聞こえてくるってだけだ」
つまり、吉藤も陽向と同様、聞かなくていい話を聞いてしまったというわけだ。
「ほんとさあ、大人がどうしようもないとこっちが苦労するよね」
「まったくだ」
愚痴ならいくらでも出てくるが、ここでそれを言っても意味がない。
やれやれとでも言いたげに、吉藤はまた川面に小石を投げた。今度はぽちゃぽちゃっと二度跳ね、すぐに沈んでしまう。それを見た陽向も続いて石を投げた。陽向の投げた石は勢い良く跳ね、向こう岸まであと少しというところで沈む。それを見た吉藤は、「なんだよ、変わってねぇじゃん」と呟く。少し得意そうに陽向は笑った。
「まあでも、そんなんだからさ、川瀬があの教育実習生にべったりだったのも何かわかるような気がしたんだ」
「きょう、いく、じっしゅうせい?」
「そう。たしか、かん、だ……違うな。かんざき、かん……かんざか。そうだ、神坂とかいうやつ」
「……」
「いただろう? ほら、三年の六月の終わり頃にきた教育実習生。なんかひょろっとした胡散臭くていけすかない感じの。なんでか女子にはやたら人気があったけど」
「――……天文部の、副顧問もやった……」
「そう、そいつ。『天文部の女子二人うらやましいー!』って、女子が騒いでたよな」
靄が晴れるように記憶が鮮明になってくる。
天文部の顧問の先生は一人だ。だが、中学三年生の六月の終わりから約一月の間だけは違う。六月の終わり、陽向のクラスに教育実習生がやってきた。『短い間だけど、よろしく』といった彼は、陽向のクラスを受け持ち、天文部の副顧問となったのだ。
神坂というその教育実習生は、この街の出身ではなかった。例年やってくる教育実習生はこの街出身で、かつ陽向達の通う中学校が母校という者が殆どだった。そのせいというわけではないが、大半の教育実習生は誰それの兄や姉、そうでなくとも知人の知人ということが多かった。教育実習生といえばどこか身内意識を感じる存在だったのだが、神坂は違った。神坂の持つ雰囲気は、この街の人間とはどこか違うようだった。今にして思えば、当時そう感じたのは、神坂がこの街の人間ではないということからくる思い込みのようなものだったのだろう。
神坂は背が高く、柔和な顔立ちだった。それは覚えているが、詳細な容姿が陽向には思い出せない。実習期間は約一月しかなかったのだから当然といえば当然だ。一月程しか顔を合わせていない相手の容姿など、余程特徴的な何かがない限り覚えていない。モデルや俳優のように整った顔立ちというわけではないが、この街の中で見かけたら少し目を引くだろうか。当時の女子生徒達に言わせれば、『ちょっと格好いい』だ。あくまで『ちょっと』であり、すごく格好いいわけではない。強いていえば、とくに特徴がないことが神坂の特徴だった。どこにでもいそうな若い男性、街の雑踏に紛れてしまえばもうわからない、神坂とはそのような人だった。
どこか知らないところからやってきた、若い不思議な男性――彼ならば、何か普通ではないものを見せてくれるかもしれない、ここではないどこかに連れて行ってくれるかもしれない。一五歳の少女がそう錯覚し、一時心惹かれるのも無理はないだろう。
例えば、純のように。
天文部の副顧問になったこともあり、純は神坂にすぐに懐いた。まだ若い神坂は他の先生よりも親しみ安いというのもあったのだろう。『先生! 神坂先生!』と呼び掛けて、放課後、部室でよく話をしていた。先生というより、近所のお兄さんといった感覚だったのかもしれない。実際、神坂は生徒の話を親身になってきいてくれていた。
だから、あの時も――
『なら、部の皆と山に登る前に、一度下見をしたらどうかな? 来週の金曜日とかはどうだろう? 来週の金曜日は天気も良さそうだ。星もよく見えるだろう。僕としても、実習の最後に何か想い出となるようなことがあるというのはいいね。学校側の許可は僕が取っておくから、二人は親御さんの許可を取っておいで』
言われるままに、陽向は純と山に登ったのだ。
「――野、大野?」
「あ……」
「どうした、急に?」
「ごめん、ちょっと……ぼんやりしてた。神坂、先生とか久しぶりすぎて忘れてたよ」
「だよなあ」
「ヨシフジはよく覚えてたね?」
訊くと、吉藤は神妙そうな表情して、黙り混んだ。「ヨシフジ?」と声を掛けると、「信じられないかもしれないけど」と前置きし、話し始める。
「俺は神坂のことをしばらく忘れてた。二学期の終わり頃かな、ノート見返してたら、『神坂に質問する』って書いたふせんが出てきた。でも、クラスに神坂って名字はいないし、先生にもいない。俺が覚えてないだけで、他のクラスか学年の誰かかもと思って何人かにきいてみたけど、皆、神坂なんて知らないって」
「……」
「あれこれ悩んで、やっと、あの胡散臭い教育実習生だ! って思い出した時はホッとしたよ。他の皆も覚えていないみたいだったけど。たしか、神坂の実習が終わったのと川瀬が亡くなったのがほぼ同時期だったから、教育実習生の記憶なんてすっ飛んじまったんだろうな。教育実習生なんて影薄いし、そんなもんだよ」
それは、おそらく本当に忘れていたのだろう。陽向と同じように。
神坂の実習最終日だった七月半ばの金曜日、陽向は純と山に登った。山の中腹にある神社では神坂が待っているはずだった。――神坂はその日を最後に姿を消し、純は戻って来なかった。陽向はいつものように翌朝ベッドで目覚め、さらに週が明け、学校で純の訃報を知らされる。そして、皆の記憶から神坂の存在は消えていた。
純と神坂、その姿があの奇妙な店の少女と男性に重なる。
忘れていただけで、最初から答えは陽向の頭の中にあったのだ。
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