第四章

1/1
前へ
/6ページ
次へ

第四章

 『約束したのに、覚えてないんだね』と少女は言った。たしかに、陽向は約束を覚えていなかった。だがそれは、約束だけではなくあの日の出来事全てを忘れていたからだ。あの日の記憶が戻ると、約束のことも自ずと思い出した。    その日、陽向は朝からしんみりとした気分で過ごしていた。吉藤と会った翌日、陽向の誕生日の前日のことだ。  朝、少しゆっくりと目を覚まし、朝食を終えると、陽向は吉藤に連絡をする。昨日別れ際に確認をしたが、吉藤の連絡先は昔と変わっていなかった。『変えたら連絡くらいするっての』と言う吉藤のマメさに少しだけ笑みが漏れた。  吉藤に今日の夜に店に行って良いかと確認すると、快諾してくれた。『長谷川もいるし、ぜひ来てくれ』という言葉に少しだけ罪悪感が募る。吉藤や綾と会いたい気持ちに嘘はない。だが、同時に陽向は二人を利用もするのだ。純との約束のために。  はあ。と陽向は小さく溜息を吐く。 「溜息を吐くと幸せが逃げていくわよ」  と、母が言う。パートに出掛ける準備をしている母は、陽向の方は見ずに化粧をしていた。今は丁度、いっとう神経を使うアイラインを引いている。その状態で話し掛けてくるとは、やはり母は侮れない。  溜息くらい吐かせてよ。と思ったが、そう反論するのも面倒で、陽向は「はあい」と返した。 「あ、お母さん、私、今日晩ごはんいらない」 「どうしたの?」 「『よしふじ』にいってくる。久しぶりに中学の頃の友達と会うから遅くなるよ。心配しないで、先に寝てていいから」 「はいはい。ほどほどにね」  嘘ではない。ただ、それだけではないだけだ。嘘を吐くわけではなくただ黙っているだけでも人は苦しさを覚えるらしい。もとから、陽向は隠し事だの腹芸だのといったことは向いていないのだ。どこか後ろめたい気持ちでもって母を見送ると、一人になった家で再び陽向は小さな溜息を吐いた。  『よしふじ』に着いたのは夕方の六時三〇分を過ぎた頃だ。いつも店の前は通っていたが、中へと入るのは初めてだった。 「よお。いらっしゃい」 「いらっしゃいませ。久しぶりだねえ、陽向」  迎えてくれたのは吉藤と綾だ。二人は主に接客をしているらしい。いずれ店を継ぐ吉藤は厨房にいることもあるが、『まずは接客!』という店主の父の方針でまだ厨房に専念させてもらえないという。店を切り盛りしていくのも大変そうだった。  いくつかおすすめの料理を頼んで、二人が仕事をしている様をぼんやりと眺める。夕飯時とはいえ平日なせいか、店内は少し空いていた。陽向の他には、カウンターに中年の男性客が一人と、テーブル席に子連れの若い夫婦が一組、陽向よりも少し年上の二〇歳少しくらいの二人連れ、これが店内の客の全てだった。吉藤曰く、店が混雑し始めるのは夕飯時を終えた午後八時三〇分を過ぎた辺りからだそうだ。  まだ仕事に余裕があるからと気遣いからだろう、時折、吉藤と綾は陽向のいる席へとやって来ては話しをしていく。 「陽向、一昨日、私の事気付かなかったんだって?」 「ごめんごめん。久しぶりだったし、まさか中学のプールに綾ちゃんがいるとは思わなくてさあ」 「大野は俺のことも気付かなかったからな。もしかしたら寝ぼけながら歩いてるのかもしれない」 「そこまで器用じゃないって」  『よしふじ』の料理はどれもとても美味しかった。流石、小さな街で何年も営業をしていられるだけのことはある。きっと、街には無数の『よしふじ』のお馴染みさんがいる違いない。中でも、豚肉と大根、里芋の煮物は絶品で、「おいしい!」と思わず溢したら、「俺が作ったんだ」と吉藤は得意そうに笑っていた。  午後八時を過ぎた頃から、店内には客数が増え、活気を増してくる。この頃になると吉藤と綾も仕事にかかりきりとなった。二人の他にも従業員はいるが、その全員で働いてもなお忙しそうだった。『よしふじ』で過ごす時間は楽しかったが、いつまでもここでのんびりしているわけにはいかない。 「なんだ、もう帰るのか?」 「うん。お店も混み始めてるし。ありがとう、ごちそうさまでした。すごく美味しかったよ」 「悪いな、なんかあんまりゆっくりできなくて」 「全然。また来るよ。今度はお酒飲めるし」  午後八時三〇分少し前、「またね」と手を振り、陽向は『よしふじ』を後にした。  そして、午後九時、陽向は山の入口にいた。この時間にこの近辺を歩いている人の姿はない。飲食店の多い川の近辺ならばまだ人通りもあるが、住宅街と学校とでなる山の方は違う。この辺りは夜になると急に静かになる。道路に沿って街灯はあるが、闇に溶けてしまいそうで心許ない。 『夜の山って、結構不気味……』  本当にそうだよ。と、陽向はあの日自分が言った台詞を思い返す。あの日、隣にいた純はもういない。懐中電灯は自分で持ってきた。電池は今日新しいものに取り替えてきたから十分だろう。陽向は懐中電灯のスイッチを入れ、山の入口を照らす。暗闇の中にぽっかりと道が浮かび上がる。それを見据え、陽向は踏み出した。  ザッ、ザッと地面を蹴りながら陽向は歩く。山の中に民家はないから、夜とはいえ足音に気を遣う必要はない。この道を一五分程歩けば神社に着く。整備された一本道だし、何度か歩いているから迷うことはない。怖がる要素は何もない、と頭では理解している。が実際に夜に一人で山を歩く恐怖は想像以上だ。神社までいけば空間が拓け、星や月の明かりが入ってくるのだが、その道中は暗く、寂しい道が続いていた。  風で樹木の枝葉が擦れる音、茂みの向こうで何か小動物が動く音、その一つ一つに驚き、足を止めてしまいそうになる。冷静に考えれば大したことのないものだとわかるが、暗闇の世界ではそうもいかない。それらは、暗闇の中からやってくる得体のしれない何かに思えた。もう引き返して帰ってしまいたい、その気持ちは嘘ではない。だが、ここで帰ってしまうわけにはいかなかった。  こういう時、どうすれば恐怖を克服できるのか、陽向は知らない。いっそ歌でも歌おうか、と考えたが、万が一にもそれで野犬でも呼び寄せてしまったらと想像するとより恐ろしい。  前はどうしたんだっけ、と記憶を辿る。二人であっても、暗い山の中を小さな懐中電灯光を頼りに歩いたのは今と同じだ。   『山登りってさあ、タルいよね』 『純ちゃんがそれを言う?』  山に登ろうと言い出したのは純だ。 『そうだけどさあ。暗いし、荷物は重いし、ジメジメしてるし』 『星見るために登るんだからしょうがないでしょうよ……』 『虫も多いしさあ』  純の手にある懐中電灯には誘蛾灯のように小さな虫がたくさん集まってきていた。純は虫が苦手なようで、先程からしきりとライトの周りを空いている方の手で払っている。それでも虫が寄ってくるのか、ついに懐中電灯ごと振り回し始めた。 『ちょっと純ちゃん! ライト振り回したら危ないよ!』 『無理! 私、虫本当にダメなの! ライトに虫除けスプレーぶっかけて!』  あの日ことを思い出し、「ふふ」と陽向は笑う。あの日、暗い山道は不気味ではあったが怖がっている暇はなかったのだ。  なるべく周りではなく記憶に意識を向け、陽向は歩き続ける。  振りかえると、あの頃の記憶は楽しいものばかりだった。想い出はどれも眩しく、陽向の奥底で宝石のようにキラキラと輝きながら眠っている。とはいえ、それは今だからこそそう見えるのだ。今となっては美しいもの、懐かしいものと思える想い出も、あの頃にはまだ想い出ではなく現実だった。  遠くから見て綺麗なものが間近でも同じように見えるとは限らない。今でこそ楽しかったと思える日々も、当時毎日がそうであったわけではない。なんてつまらない日なのだろう、そう考えながら過ごしていたこともある。仲の良い友達がいて、一緒に笑いあって過ごしていたのにだ。どれほど笑って過ごしていても、あの頃、陽向の中にある虚のようなものは埋まらなかった。だが、きっとそれは何も陽向に限ったことではない。大きいか小さいか、塞がるか塞がらないかといった違いだけで、それは誰もが皆持っている。  おそらく、純にもそれはあった。そしてそれは、陽向のものよりも大きかったのだろう。だから、純は向こう側にいってしまった。  前方に石段が現れる。この石段を昇った先が神社だ。踏み外さないように気をつけながら、陽向は石段を昇る。一段、一段と上げる足は重い。それは段差が大きいからだけではないだろう。  石段を登りきると神社の鳥居が見えた。古いが、手入れされている鳥居だ。その向こうには社がある。こちらも鳥居同様に古いが、やはり手入れはされているようだ。荒れている様子はなく、賽銭箱の隣にはお供え物らしきものもある。  社の前には人が二人、寄りかかるようにして立っている。一人は利発そうな少女で、もう一人は背の高い男性だ。その二人ともを陽向は知っている。  陽向の姿をみとめると、少女は嬉しそうに笑った。 「よかった。来ないかと思ったよ」 「約束、だからね」 「思い出したんだ」  ホッとしたかのように呟く少女の隣で、男性が笑う。  少女の――純の姿はあの頃と同じままだ。男性の姿も、あの頃神坂として陽向達の前に現れた時と同じだった。もしかしたら、この男はそれよりもずっと前、何年も、いや、何十、何百年も前から同じ姿のままなのかもしれない。  あの日、神社に着くと神坂が――いや、神坂という人間の皮を被った何かがいた。それが何なのかは陽向にはわからない。ただ、初めて、目の前にいる何かを恐ろしいと感じた。その恐ろしさは、怒った親や先生が怖いというものとは全く別のものだ。強いていえば、小さな頃、近所の家にいたとても大きな犬に対する恐怖に似ている。その大きな犬は普段は大概昼寝をしているのだが、稀に人が通ると起き出してよく吠えた。犬の大きさと顔の迫力が相まって、小さな頃の陽向はその犬が怖かったのだ。その家の前を通る時は、いつ犬に吠えられるのではないかといつも怯えていた。神坂から感じるものもそれに近い。いつ、何が起きるのかわからない、獣と相対した時の感覚だ。 『やあ、二人とも。よくきたね』 『先生! もう、大変でしたよ』  純は何も感じていないのだろうか。いつもと同じように神坂へと近付いていく。『純ちゃん……』と小さく呟いて、陽向はその手を引っ張った。 『陽向? どうしたの?』  神坂の影が長く伸びる。夜、月と星の明かりでできた影にしては随分と濃い影だ。人の形を映していたその影はみるみると伸びていき、今では黒く蠢く何かに変わっている。地面からいつ迫出してきてもおかしくはない。『ひっ……!』と陽向は喉の奥で悲鳴を上げた。 『もう少し騙し騙しやらないといけないかとも思ったんだが、なに、早いほうが効率が良い気がしてね』  人のものではない影を纏った、人の形をした何かは、それでもいつものように穏やかに話し始めた。 『早速で申し訳ないが、君たちに訊こう。私とともに来る気はないかい?』 ――そして、純は行ってしまった。あの時、止められなかったことを、陽向は後悔している。 「こうして会うのは久しぶりだね。この間はご来店どうもありがとう」  と、神坂は言った。 「今わかった。あれもあんたが仕掛けたんでしょう?」 「まさか。それは違う、誤解だよ。私には生きている人間をどうこうするような力などないさ」 「そう。それはその通り。あのお店はね、必要なときに必要な人がこられるようになっているの。だけど、それだけ。ひなたを不思議パワーで呼び寄せることなんてできないよ。ひなたが来てくれたから、そうか、ひなたが必要としてくれてるんだって思ったの」 「純ちゃん……」  目の前にはあの日と同じように純がいる。純によく似た少女ではなく、本物の純だ。 「手紙、純ちゃんでしょ?」 「うん」 「なんであんなことしたの?」 「なんで? なんでって、ひなたのことが気になったからだよ」  たしかに、手紙の内容は常に陽向のことを気にかけていた。だが、陽向が訊きたいのはそうではない。 「なんで? なんで、生きてるなら帰ってきてくれなかったの?」  生きているなら、元気な姿を見せてほしかった。この何年間か、ずっと純は亡くなったものだと思っていた。それもこれも、この神坂のせいだ。あの日、この化け物が純を連れて行ってしまった。残された陽向は喪失感を抱えたまま、想い出に縋ることしかできないまま今日まできた。 「ねえ、帰ろう? 家がないなら私のところにくればいいよ。東京の部屋だったら、私しかいないから大丈夫だよ。ね、そうしよう?」 「ひなた」 「私、バイトしてるから少しならお金もあるし。東京なら純ちゃんのこと知ってる人もいないから、今の姿のままでも誰もおかしいなんて思わないじゃない。だから」 「あまり無理をいうものではないよ、陽向君。純が困っているではないか」 「!」  純はかなしそうに微笑んでいた。静かに首を横に振ると、「ごめんね」と呟く。 「ごめんね、ひなた。ありがとう。――でも、それはできないんだよ」 「……どうして?」 「私が、向こう側を選んでしまったから」  その何かは、暗いところからやってきたという。  その何かは、長い時を生きてきた。人と同じ姿をした何かは、人の世と、人の世ではないどこかとの間とで生きていた。この世でもあの世でもないどこか。そのせいか、その何かは人と同じように生きているが、歳を取らない。いつとも知れぬ時、いつとも知れぬところからやってきて、やがて去っていく。そうして後に残された人は、その何かのことを忘れてしまう。  その何かには人を喰うだとか、殺めるだとか、大それたことができるわけではない。ただ、長く生きたそれは、生きている人をむこう側に引き込むことができる。引き込まれた人は歳を取らず、やがて何かと同じ存在となる。  その何かは人でなくとも人であったことをときになつかしく思い、人を恋しがる。何かは人に忘れられることをおそれ、稀に自ら人の中に溶け込み、そうして、人を攫っていく。その人がいなくなった後には、まるでその人がいないことがあたりまえであるかのようになってしまう。  だからその何かには気をつけなくてはいけない。人と同じようにみえても、それは決して人ではない。 『私たちはね、寂しいんだ。たまに、どうしようもなく、仲間が欲しくなる。だから、私は君たちを連れていきたいと思っているんだよ』  あの日、神坂はそう言っていた。 『君たちを見ていて、君たちのような人間には、この世界はとても生きにくいのではないのかと思ったよ。この世界にいて、むなしくなることはないかい? 不安になることは? ここは自分のいるべきところではないのかと思ったことはないかい?』 『――……私たちがいなくなった後はどうなるんです? もう戻ってこれないの?』 『そうだね。いなくなった人間は、亡くなったことになる。人が一人いなくなったことを世界は死として処理するんだ』 『そんな』 『でも、どうでもいいことだろう? 君たちが抜け出す手段は目の前にある。抜け出した後がどうなろうとどうでもいいはずだ』  そのように簡単なことではない。人が亡くなるということは、本人にとっても、遺された人間にとってもこれ以上なく大変なことだ。誰かのこれからを潰してしまうことを、どうでもいいなどと片付けていいはずがない。陽向がそう反論しようとする前に、純は口を開いた。 『行きます。ここから抜け出せるなら、私はそれでかまわない』 「うちさあ、親と私、すっごく仲が悪かったのね」  と、純は話し出した。「もしかしたら噂とかで知ってたかもだけど。まあ、久しぶりだしちょっと聞いてよ」と、先を続ける。 「うちのお母さんと私は血が繋がってないんだわ。お父さんはほぼ仕事でいない。本当に仕事でいないのか、愛人でも作ってよろしくやってるのかはわからない。なんで愛人かって? 私を生んだ人が愛人だったらしいんだよね。それで、うちのお母さんは私のことが大嫌い。私を生んだ人が今どこにいるのかはわからない。もしかしたらどこかで元気に暮らしてるかもしれないし、もう亡くなってしまったかもしれない」 「……」 「ドラマとかみたいに虐待されてたわけでもないし、暴言とかもなかったけど、お母さんが私のこと嫌ってるのはずっとわかってた。私は――よくわからないけど、これは一緒にいるとよくないなって。学校には友達もいたし、陽向がいたから、あの時、何もかもが嫌だったわけではないけれど、でも『ああ、ここは私のいるところじゃないな』っていうのはずっと思ってたよ」 「純ちゃん、それは」 「あ、まってまって。ストップ」  最後まで聞いてね。と、純は陽向を制すように腕を振る。 「だからさ、陽向が気にすることはないんだよ。私は、私が向こう側に行きたかったからそうしたの。ここではない、新しい世界を見てみたかったの。それで戻れなくなってもかまわなかった」  とても小さな頃、陽向にとって世界はとても狭かった。両親も友達も、親しい人達は皆この街にいる。必要なものはすべて街の中にある。世界は小さく、狭く、それだけで完結していた。街の外にも世界はあるのだと気付いたのはいつの頃だっただろう。明確には覚えていない。街の外にもこの街と同じように街があって、そこでも人がたくさん暮らしている。街の外には、この街にはない海があって大きな山もある。海の向こうにも街はあって、色々なところで色々な人々が暮らしている。そう気付いた時、世界は大きく広がった。  いつしか、広い世界は自らを苦しめる。世界がどれほど広くても、簡単に外の世界に出ていけるわけではない。外の世界に出ていけない理由を考えては、自分の卑小さと度胸のなさを嘆いて、でもどこかで安堵していた。結局、陽向にとって世界とは、この街だった。歳を取り、今はそれが少し広がって、東京の自分の部屋や大学が増えたけれども、自分の手の届く範囲が陽向の世界であることに変わりはない。  だが、純は違った。両手を広げて外の世界へと駆けていくことを、純は選んだのだ。 「むこう側も結構楽しいよ。こっちでなんだかんだ毎日色々あるように、向こうでも色々ある。最初、神坂に『何もない穏やかな世界ですよ』とか言われたから、『げ、失敗したかも』とか思ったけど、そんなことない。こっちに色々な人がいるように、向こうにもいろいろなものがいる。――ね、だからさ」  『一緒にいこうよ。  二十歳になる前に、迎えにくるよ。だから、その時、こたえをきかせてね』  それが、純との約束だった。  あの時、陽向は迷い、純の手を取れなかった。だから純はその答えを保留としたのだ。 「こっちに残してきたものに未練とかってあんまりないんだけど、ひなたは別だよ。ねえ、ひなた。一緒に行こうよ。色々なものを見にいこう? 二人なら、きっと、今よりももっと楽しいよ」  ね? と差し出された純の手を陽向は見つめる。  純は、何を言ってももうこちら側には戻ってこない。住む世界が違ってしまったのだ。純と一緒にいるためには、陽向がむこう側に行くしかない。  歳をとらず、このままずっと、純と一緒に生きる。それは、本当に夢のような話だ。  陽向はやんわりと微笑むと、ゆっくりと首を左右に振る。 「――そっか」 「ごめんね、純ちゃん」 「ううん。いいんだ。陽向なら、そうするってわかってたよ」  家族も、友達も、陽向の大切なものはこちらにある。純のこちらに残した唯一の大切なものが陽向だったとしたら、陽向の大切なもので唯一向こうに行ってしまったものが純だ。  大切なものをみんなこちらに残したままむこうに行くことは、陽向にはできなかった。 「きっと、私、欲張りなんだ」 「いいじゃん。欲が多いほうが長生きするよ。陽向にはめちゃくちゃ長生きしてもらわなきゃ。また会いにきたときつまらないじゃない」  純の軽口に陽向は小さく笑みを漏らす。瞬間、突如沸いた影のようなものに視界が覆われた。それは地面から噴き出るように現れ、陽向の全身を絡めとると影の中へと引きずりこむ。 「かん、ざか!」 「言ったでしょう? こういう頑固者には荒事が必要になるって」  ふざけるな! と陽向は叫んだが声にはならなかった。必死に手足を動かすが何の感触もない。視界は暗く闇に染まり、思考は段々と緩慢となり、呼吸はゆるくなる。なるほど、これが向こう側に行くということか、と頭のどこかが考える。冗談ではなかった。そのようなことは陽向は望んでいない。 「ほら、ぐずぐずしないでさっさとする。人間一人連れて帰るのはなかなか手間がっ……!」  ふと、視界が晴れた。相変わらず辺りは暗かったが真の暗闇ではなく、夜の暗さだ。うっすらとだが樹々と神社の境内が見える。何が起きたのかと視線を巡らすと、地面に倒れ伏す神坂と、立ち尽くす純の姿があった。純が、神坂を殴ったのだ。 「まったく、ひなたに手出すんじゃないっての!」  ――純ちゃん。と、呼んだつもりが声にならない。視界がふたたび徐々に暗くなる。 「ひなた! ひなた!」  純の声を遠くに聴きながら、陽向は意識を手放した。  ごめんね。と、声を聞いた気がした。純の声だ。  どうして謝るの? 純ちゃんは何も悪いことしてないじゃない。そう答えると、純は少し安堵したようだ。ひなたはやさしいね。と小さくこたえる。  ねぇ、ひなた。と、純は続けた。  これからも友達でいてくれる?  そんなのあたりまえだよ。いつだって、純ちゃんは私の大好きな友達なんだから。  姿は見えなかったが、その言葉を聞くと、声は嬉しそうに笑ったのだ。 「――……いたい」  うっすらと目を開けると、陽向は呟いた。全身が軋むように痛い。まるで、珍しく運動をたくさんした日の翌日のようだった。呻きながら立ち上がり、全身を見渡す。怪我はとくにしていない。どうやらただ筋肉を酷使しただけのようだ。 「純ちゃんは……」  辺りを見回すが、陽向の他には誰の姿もない。社の裏手まで歩いて行ったが誰もいなかった。純も、神坂も消えていた。まるで、最初から二人はいなかったとでもいうように。 行ってしまったのか。そう考えると寂しい。せっかくだというのに別れの挨拶もできなかった。  大分時間が経ってしまったような気がするが、果たして今は何時なのか。ジーンズの後ろポケットにいれたままにしていた携帯電話を取り出し、時刻をみる。案の定、山に入ってからはかなりの時間が経過し、丁度日付が変わったところだった。  ――二十歳になったんだ。  と、ぼんやりと思う。二十歳になったからといって、何が変わるわけでもない。だが、ずっと胸の奥の方につかえていた何かが取れたような気がした。  ブン、と低い音を立てて携帯電話が振動する。まどかからだ。短く、『誕生日おめでとう!』というメッセージが入ってきた。次いで、吉藤、綾と立て続けに連絡がくる。 「っと……こんなことしてる場合じゃない」  用事が済んだのならば、このような山の中に長くいる必要はない。  帰ろうと道を戻る途中、陽向は空を見上げた。山の中腹にある神社からは空が良く見えた。遮るものの何もない綺麗な星空は、まるで群青の天鵞絨の上で宝石箱をひっくりかえしたかのようだ。あの日、純とみるはずだった星空を陽向は今見上げている。今頃、純もどこかでこの星空を見上げているだろうか。 「……純ちゃん」  こたえるように風が吹いた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加