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すれ違いざま風に靡く綺麗な黒髪。
風に乗ってふわりと薫ったのは多分シャンプーの匂いだ。
桜の花弁が腰まである黒髪をさらりと撫でる。その後ろ姿はとても美しかった。
目を、奪われた。まるで映画のワンシーンの様だった。
脳内に『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』という言葉が浮かぶ。語彙力のあまりない私ではうまく言葉として表現できないが、彼女の姿の美しさに私の胸は高鳴ったのだ。
私の右側を通り過ぎたその人は、澄ました顔でまっすぐ私が来た方へと歩いて行った。顔は一瞬しか見えなかったけれど、横顔はとても整っていたように思う。私は思わず足を止めて後ろを見た。
彼女は足を止めることなく校舎に向かって歩いて行く。
私と同じデザインの制服のスカートの裾がひらりと揺れた。
「……綺麗」
ぼそりと零れ落ちた言葉を拾う人はいなかった。
まるで一目ぼれしたかのように私はその人から視線を逸らすことが出来なかった。後姿だけでも分かる、多分彼女が醸し出している雰囲気から普通の人とは違うのだ。
私と同じく新入生だろうか?それにしてはその制服は彼女に馴染んでいて、私の制服に着られている状態とは対照的だ。
彼女の周りだけ切り取られたように、別の世界だった。
「萌々香、早く来なよ!」
周りの音が入ってこない。
「萌々香!?」
新しくクラスメイトになった友人に肩を叩かれて、はっと現実に引き戻される。
「どうしたの?具合悪いの?」
「あ、いや……ごめん、大丈夫」
「大丈夫ならいいけど……ほら、みんなで写真撮ろって!」
私は手を引かれて、これからクラスメイトとなる人たちの集団に入っていく。最後に校舎に視線を向けたとき、彼女はもうそこにはいなかった。
「今日駅ですれ違った人、めっちゃかっこよかった!」
「モデルの××君!めっちゃイケメン!ホントヤバい!あんな人が彼氏だったらサイコーなのに!」
「バイト先の先輩がカッコいいの!今、彼女いないって!告ったら付き合ってくれるかな?」
「沙耶の彼氏ってさ~」
高校一年生の夏は勉強以外のことに忙しい。
大人たちはもう大学受験は始まってるんだと騒いでいるけれど、私たちの一番は勉強ではなかった。人によるのかもしれないけれど、少なくとも私たちにとっては違うと思う。勉強以外にも友情に恋愛に忙しい。高校一年生の夏は今しかないのだ、少しの青春を堪能することくらい許してほしい。
周りの同級生たちは恋の話に花を咲かせている。
「ねぇ、萌々香は好きな男子いないの?」
「え?」
突然飛んできた質問に私はきょとんとした。会話の輪には入っていたが、まさか自分のところに飛び火してくるとは思っていなかったのだ。
「好きな人とか、彼氏は?」
好きな男の子の話や、好みのアイドルの話などは全くしない私のそう言った話に周りは興味津々の様だった。
「い、いないよ」
私は手を振りながら否定する。
「そうなんだー、萌々香可愛いからいると思ったのに!」
それ以上の追及がなさそうン雰囲気に安堵した。私は彼女たちが羨ましい。男の人を好きになれる彼女たちが。
私は男の人が苦手だった。
小学校の時に男子にからかわれて以来、男子とはうまく話せない。後ろから服の中にダンゴムシを入れられたのだ。それから私は男の人が苦手になった。苦手といったら表現が甘いかもしれない、嫌いだ。たったそんなことで、と思う人もいるかもしれないが、私には男という生き物が嫌いになる理由として十分だった。
あれから数年経ったけれど男の子が苦手、男の子が嫌いという気持ちが消えることはなく、中学校でも殆ど男子と喋ることはなかった。片手で数えられるくらいの最低限の会話しかした覚えはない。男の人でしゃべるのは父親と祖父くらいだろう。
そういう事もあって高校は男子の居ないところが良かった。女子高を選択したのだ。ちょうど学力的にレベルのあった学校があってよかったと思う。この高校に合格した時、やっと毎日の男子を避けながらの学校生活から抜け出せると心から喜んだものだ。この学校には少人数の先生を除いて男子はいない。その数少ない男性教師も定年間近か定年を迎えるような年の先生ばかりだ。
容姿の綺麗な男子の話で盛り上がっている彼女たちの話に適当に相槌を打ちながら、私は愛想笑いする。正直この時間が一番嫌いだった。早く終われとさえ思う。
男の話をするくらいなら美味しいパフェの店の話とか可愛い雑貨屋さんの話をしてほしい。それなら大歓迎だ、恋の話以外なら一層の事勉強の話だっていい。
授業の開始を告げる音がする。
「あ、ヤバい先生が来る!」
「その話の続き、後でしよ」
蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの席へと戻っていく。
もう少しで定年を迎えるらしい男の先生がやってきて、教科書を教卓の上へと置いて授業が始まる。因みに彼は私の中では男の人としてカウントされない。本人に言ったら失礼だと言われるかもしれないけれど。
私は窓の外の青空へと視線を向けた。
ふと、私は入学式で見たあの黒髪の綺麗な人を思い出す。彼女は幻だったのだろうか。学校に入学してから夏休みも終わってもう半年になるが、私が彼女を学校内で見かけることはなかった。同じ学年の子ではないことは廊下に張り出されていた入学式の写真で確認した。しかし彼女がこの学校の制服を着ている以上、この学校の生徒であることは間違いないだろう。同級生でないというならば彼女は先輩だという事になる。廊下を歩く度に彼女の姿を探しているが、彼女を見つけることは未だに出来なかった。
先生の言葉が子守歌のように聞こえる。
毎日が楽しいかと言われれば何と答えたらいいのか分からない。同じような日々が過ぎていく、刺激のない毎日。
別に不幸ではない。多分、一般的言ったら私は幸せだろう。
それでも何か物足りない気がしていた。
この学校の屋上を利用する生徒は皆無である。
いや、正確には利用している生徒を知らないだけで使われている可能性はあるかもしれないが、使われている気配は全くなかった。
別に屋上に上がることを禁止されているわけではないけれど、屋上までの階段が半分物置のようになっているので生徒が通ることは殆どない。文字通り足の踏み場がないのだ。これは防災的な観点で言えばどうなのかと思うが、その辺は生徒である私が心配する必要はないだろう。
この場所が使われる例外なのは、この階段に置かれている荷物が運び出されるときぐらいだろう。階段に所狭しと置かれた段ボールの中身は文化祭で使う小道具が殆どらしいと聞いている。らしい、ということは正確に把握している人間はいないということだ。
かくいう私も入学してからもう半年は経っているけれど、屋上へと続く階段の前には来たのは初めてだ。入学してすぐの学校案内で荷物が崩れてきたら危険だからあんまり近づかないように、と説明を受けたこともあり近寄ったことはなかった。
これが漫画だったならば禁断的な雰囲気に興味を惹かれた不良少女のたまり場になっていそうだ。しかしそれなりの偏差値のこの学校にその類の女子がいるのは入学してから一度も見かけていない。
そしてここに人が寄り付かない決定打がとある噂である。幽霊がでる、という噂。その幽霊はこの学校の制服を着た女子生徒で、黒髪の少女、数年前に交通事故で死んだとかなんだとか。よく考えれば交通事故で死んだ女生徒がどうしてこんなところに現れるのかとか色々疑問はあるけれど、噂なんて総じてそんなものであろう。
そもそも私がこの屋上へ続く階段に近づいたのは日直の仕事で普段より帰りが遅くなったのがきっかけだった。担任に呼ばれて明日配る資料を教室まで運ぶ仕事を任されたのだ。少し時間のかかる仕事だったから、いつも一緒に帰っている友達には先に帰ってもらった。
やっと配り終えて帰ろうかと思った時、ふと、教室の窓から見えたのは真っ赤な夕焼けだった。
「わぁ……」
思わず言葉が漏れてしまうような綺麗な夕焼け。
キャンパスに朱色の水彩絵の具を彩ったように、雲が綺麗に染まっている。鮮やかだった。私は思わず窓を開けて、顔を出して空を見上げた。
もっとちゃんと見たい。
その気持ちが足を屋上へと続く階段へと促した。荷物をそのままに教室を出て、屋上へと続く階段へと急ぐ。早くしないとあの綺麗な夕焼けが消えてしまうかもしれない。段ボール箱を避けながら、隙間に足を入れて階段を上っていく。普通の階段を昇るよりもかなり時間はかかったけれど、屋上のドアまでたどり着いた。
ドアの前まで来てから私は屋上の鍵が開いているのか開いていないのか知らないことに気付いた。
ドアが開かなかったら諦めようと思った。きっと鍵がしてあるだろうと思ったから。
右手でドアノブを回してみると、ぎぃっと錆びた鉄が擦れる音がして扉が開いた。鍵がされているだろうと思っていたけれど、されていなかったようだ。それにしても思っていた以上にドアが重い。開けた扉の先には、夕焼け色に染まった空が見えた。
やっぱり綺麗だ。
私はその色に感嘆した。そしてフェンスに寄りかかるようにして空を眺める一人の先客を見つけた。
「……あ」
忘れるはずもなかった。
後姿だけで分かる、入学式に会った彼女だ。
黒髪が夕日の赤にほんのり染まっている。
彼女は私が屋上に入ってきたことに気付いていない様子で、振り返ることなく赤く染まった空を見ていた。その姿は美術館に飾られている絵のように綺麗だった。
私はドクドクといつもより心臓の音を大きく感じた。
なんと声を掛けたらいいのか分からなかった。
静かに私もフェンスに近寄って、彼女の隣に立った。フェンスは少し錆びていた。そんなフェンスに体重をかけるのは怖くて、傍に寄るだけにした。私は色が変わっていく雲を眺めた。ふと彼女の方を見たけれど、彼女が私の方を見た様子はなかった。存在に気付いていないわけではないとは思う。
結局彼女が私に話しかけたのは完全に陽が沈んで、空の色が変わり切った後だった。
「一年生?」
「あ、はい」
「今日の空、綺麗だったわね」
「は、はい。綺麗でした」
「貴方、屋上来たのは初めて?」
「はい」
「そう」
いいところでしょう?
そう言った彼女の顔は自慢げで、私は彼女がここの常連であることを悟った。
「あの、三年生ですか?」
「そうよ、三年」
「そうですか」
彼女はにこりと笑って、私を見た。
「そろそろ暗くなってきたし帰らなきゃね」
「あの、先輩」
「ん?」
「また、ここに来てもいいですか?」
「いいわよ。別に禁止されてるわけでもないし。貴方も、帰る?」
「帰ります」
校舎に戻るために後ろを向いた彼女の後に私も続く。
「あの、先輩」
「何?」
積み上げらえた段ボールを避けながら私たちは階段を降りていく。上る時よりも少し怖い。少しでも足場を間違えたら階段を踏み外してしまいそうだ。
「気を付けて、昇りより下りの方が大変だから」
「あ、はい」
「私、一度転んだことあるから」
意外と親しみやすい人なのかもしれない。言葉の少ない人かと思ったけれど、思ったよりも話しかけてくれる。
私は彼女と会ってからずっと言いたかったことを口にした。
「私、先輩の事入学式で見かけてて」
「そうなの」
「綺麗な人だなぁって」
「……お世辞でもありがとう」
「お世辞じゃないです」
彼女は振り向いて私を見る。黒い瞳が二つ、私をじっと見つめる。なかなか人から真剣な目でじっと見られることなんてない。私は顔が熱くなるのを感じた。
「私は佐々木春菜」
「わ、私は秋山萌々香です」
「そう、萌々香ね。またね」
先輩は慣れた足取りで最後の数段を降りると、三年生の教室の方へ消えていった。
「また来たのね」
「はい」
屋上が私の定番の場所になるのに時間はかからなかった。
びしょぬれになるのが確定である雨の日以外は大抵放課後に屋上に行く。いつも一緒に帰っていた友達には授業が終わると教室から消えるのを「何かあるの?」と不思議がられた。そりゃあそうだろう、今まで一緒に帰っていたのだから。私はテントの点数が低かったことを親に怒られて放課後図書館で勉強することにしたのだと嘘をついた。嘘をつくことを申し訳ないとは思ったけれど、屋上に行くことは言わなかった。
うちの学校の図書館は殆ど勉強に関する書籍しか置いておらず、殆ど利用する人間がいない。なので私の図書館通いの嘘を暴くクラスメイトはいなかったし、一緒に勉強するから図書館通いをしたいという奇特な人間もいなかった。別にクラスメイトや今まで一緒に居た友達をないがしろにしているつもりはないけれど、私は想像以上にこの屋上での時間を心地よく感じていた。
屋上という場所は彼女と私だけの空間でありたかった。
「先輩も、毎日のようにここに居ますね」
「私、ここから見る景色が好きなの」
彼女の横顔はどこか遠くを見つめていた。
「気持ち、分かる気がします」
「だから目の奥にね、焼き付けておきたくて」
「?」
意味深なその言葉の意味を測りかねていた。
「私ね、卒業式の日死ぬの」
「え?」
唐突な彼女の言葉に私は呆然とする。なんと言葉を返したらいいのか分からなかった。嘘か冗談かと思った。でも彼女が冗談を言うような人でないことはもう知っていたので本当なのだろう。もしかしたら何か病気でもしているのだろうか?
私の反応から思っていることを彼女は知っていたかのように「別に病気ではないのよ」と彼女は静かに言う。
「じゃあ、どうしてそんなこと分かるんですか?」
私の頭の中に唐突に『自殺』という言葉が思い浮かんだ。もし彼女が卒業する日に自殺を企てているのだとしたら、彼女の言葉は真実味を得る。
「ふふ、自殺もしないわよ」
私の考えなどお見通しであったかのように彼女は笑う。
「私、夢を見るの」
「夢……ですか?寝てみるやつですか?」
「そう、寝てみるやつね」
それならば誰だって見るだろう。現に私だって夢を見たことぐらい数えきれないほどある。
「私が見る夢はね、予知夢なの」
「予知夢」
その言葉にいまいちピンと来なかった私はその言葉の意味を考える。彼女にはそれが分かったのだろう「予知夢って言うのはね、未来で起こる事を夢で体験することね」と説明してくれた。
多分今の私は馬鹿面を晒しているだろう。あまりに突拍子のない言葉に口を開けて黙ってしまった。先輩はそんな私を見て一笑した。少しの空白の後、私が口を開く。
「……先輩って、実は幽霊見えます?」
「見えないわよ」
「……そうですか」
「霊能力者とかじゃないんだから」
「……」
「私、昔から予知夢を何度か見たことがあるの。外れたことないのよ」
彼女は昔見た予知夢を少しだけ教えてくれた。
小学生の時に見た自分の祖母の死について。飼っていたペットの死が死ぬ夢も。
彼女の予知夢は彼女に近しい誰かの『死』についてばかりだそうだ。
「先輩、将来は占い師になれそうですね」
「……ふふ、人の死だけ占うだなんて、不吉な占い師ね。絶対に売れないに違いないわ」
「あ、ごめんなさい」
「別に謝らなくてもいいのよ」
「……あの、なんで死ぬんですか?」
言いにくかったら言わなくてもいいんですけど、と私はあわてて付け加える。彼女はなんてことないようにすぐに次の言葉を返した。
「分からない。気付いたら死んでたから」
彼女の言葉は私にとってとても重かった。
「他の人の時は分かるの。だって夢の中では私は生きてるから。でも今回は自分の事だからなんでだかよく分からなくて。きっと夢の中の私もなんで自分が死んだのか分からないうちに死んだんだと思う」
他人事のようにそういった彼女はどこか別の世界の人間の様だった。
周りの人間はいつも通りの日常を享受している。
朝起きて、学校に行って、ある人は部活をして、帰って、ご飯を食べて、寝る。多分彼女の日常だってそう多くは違わない。そんな生活のどこに『死』があるというのだろうか。
勿論、人間突然死が訪れることがあることは承知している。
今日まで元気にしていた人が、明日には死んでいるかもしれない、生きとし生けるものが必ず明日も生きているという保証はどこにもないことなど知っている。
それでも現在病気でもなんでもないのに彼女は自分の死を、死に時を知っている。
その事実は私にとって衝撃的だった。
「先輩は、」
「ん?」
「先輩は、納得してるんですか?」
「それは……私が卒業式の日に死ぬことについて?」
「はい」
「そりゃ最初は信じられなかったわよ。自分が死ぬ夢なんて見たくもなかったし、そんな未来知りたくもなかった。でもね、」
先輩はどこか遠くを見ながら言った。まるでどこかに行ってしまいそうなその表情に私は彼女の制服の裾に手を伸ばして、そしてその手は袖に触れる前に降ろされた。
「それでいいと思ってるの」
なんで、という言葉は私の口から出てくることはなかった。
彼女の横顔がとても美しく見えた。まっすぐ前を見ている黒い瞳は、何を考えているのか私には分からない。まだ彼女は十七歳だというのに、 私より二年長く生きているだけでだというのに私よりもずっと大人に見えた。
「だって、死に時が分かっていればそれまでにやりたいこと、できるでしょ?」
彼女は自分が死ぬ準備をしているようだった。
「やりたいことは全部ノートに書いてあるの」
「……」
まるでエンディングノートだ。
私は彼女が他の友達やクラスメイト、他の先輩たちと違って見えるのがどうしてだか分かった気がした。彼女は誰よりも儚くて、消えてしまいそう、そこが美しい。一瞬一瞬を生きている気がした。
「この話をしたのは貴方が二人目ね」
「二人目」
一人目は誰だろうか。母親とかだろうか?
「……なんで私にしてくれたんですか?」
私の質問に彼女は私の目ではなく、屋上から見える景色を見て言った。
「この景色を私と同じように綺麗だって思ってくれて、一緒に居て居心地がいい人は貴方が初めてだったからかな」
「……」
「本当は話そうかどうか迷ったのよ」
彼女は眉を下げてこちらを見た。
「初めて話した子には嫌われてしまったから」
眉を下げたまま優しく微笑む。嫌われてしまったから、というあっさり言われた言葉の中には彼女の悲しみが沢山詰まっていた。多分家族ではないとは思う、彼女の一人目の理解者になるはずだった人はどんな人だったのだろうか。
「貴方はもし自分が死ぬとしたら、それがいつだか知りたい?」
黒い瞳が二つ、まっすぐ私の瞳を見つめる。
「知りたいです」
「どうして?」
「どうしてって……先輩と同じかも知れません。できれば死ぬときに後悔したくないから」
「そう。そういうところも私達似てるのね」
「そうかもしれません」
視線を景色に戻した彼女の横顔を私は見つめる。
「私、友達少ないの」
唐突な彼女の言葉に私はぽかんとする。彼女には私の反応が分かっていたのだろう、彼女は私の方も見ずにくすりと笑った。
そういえば先輩から彼女の友達についてあまり聞くことがなかった。元々あまり言葉が多い人ではないという事もあるかもしれない。斉木任になって時々私たちはお互いのことを話すようになったけれど、彼女から語られる話にあまり他人は出て来ない。クラスメイトの話は時々出てくるけれど、その時も彼女が親し気に友の名を呼ぶことはなかった。
「さっき言ったでしょう?おばあちゃんとかペットの死に際を夢で見たって。多分親しくなるとその人の死が見えるの。知らない人の死ぬ夢は見たことないから」
彼女が友達を作らない理由が分かった。彼女は優しいから自分の親しい人の死を夢見るのが怖いのだ。
「でも、もう萌々香のは無理かな。見ちゃうと思う」
「見たら教えてください」
「うん」
彼女にとって私はそれだけの価値のある立場になれたという事だろう。それが嬉しかった。
「さて、もうすぐ陽が完全に落ちちゃうわ。今日は夕焼けにはならないわね……帰りましょう」
そう言って彼女は私の方を見た。
その唇は優しく弧を描いている。
なんだか私はこのまま彼女と別れたくなくて、彼女の制服の裾を掴んだ。その幼稚な行動に彼女はくすりと笑う。
「可愛いことするね」
「……そんなことないです」
彼女は私の手を離さなかった。
「もう少しだけいる?」
「うん」
「萌々香、お願いがあるんだけどいいかな?」
「何ですか?」
「私のやりたいこと、一緒にやってもらってもいい?」
「え?」
意味がすぐに理解できなくて私は問い返す。
「やりたいこと、ノートに書いてあるって言ったでしょ?」
「はい」
「どこそこのカフェでパフェを食べるとか、映画を見るとか、死ぬまでにやりたいことが書いてあるんだけど」
「はい」
「それを、一緒にしてほしいの」
私は言葉に詰まりそうになった。
「私で、いいんですか?」
きっと私よりもふさわしい人が居るだろう。こんな素敵な人なのだ、親友と呼べるような、もっと私よりも彼女の隣に相応しい友達がいるに違いない。
「萌々香がいいのよ」
先輩はそういって私を抱き寄せた。ふわりとシャンプーのいいにおいがした。
「今日の事、私と萌々香だけの秘密にしてね」
私と彼女は結局、太陽が沈み切るまで二人屋上で過ごした。
「萌々香、今週の日曜日に映画に行きましょ」
その次の日放課後に屋上で先輩に会うと彼女はいつも持っていない携帯電話を手に持っていた。私はいつもポケットに入れる派だったから、その場で連絡先を交換した。その時初めて先輩の連絡先を知った。
「映画、ですか」
「萌々香はどういう映画が好き?」
「……アクション映画とか好きです」
「アクションね、恋愛映画とはは見ないの?」
「……私、あまり恋愛映画は好きじゃなくて」
「そう、」
その理由を彼女は聞いてこなかった。
きっと他の同級生ならば聞いてきただろう、私は彼女がそれを私に聞かなかったことに安堵した。彼女に変な奴だと思われるのが怖かった。
先輩は携帯を弄っている。どうやら今やっている映画をチェックしているようだ。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ん?」
「なんで、映画ですか?」
「デートの定番じゃない?」
「デート……ですか」
「うん、デート」
そう言ったきり、彼女は携帯へと視線を戻す。成程、デートか。
「これなんかどう?」
彼女が見せてきた画面に映っているのはゴリゴリのアクション映画だった。テレビの宣伝でやっているのを見たことがある。ちょっと話題にもなった奴だ。
「面白そうですね」
「じゃあこれにしよう」
「駅前の広場に集合でいいよね?」
「はい」
「じゃあ、十時に」
「分かりました」
それ以降、彼女がその話題について触れることはなかった。いつものように二人でじっと空を見つめる。最近は少しだけ話をするようになった。
勉強の話とか、友達の話とか。今度行ってみたいおしゃれなカフェの話とか。
陽が沈むころ、私と彼女は別れる。
その夜、彼女から一通のメールが届いた。
「明日、楽しみにしている」
彼女から来たメールは端的で、それがまるで彼女を呈しているようで少し笑えた。
駅前の広場で私は彼女を待つ。
この日のために私は少しだけ背伸びをしておしゃれをした。大人っぽい彼女の隣に立つのだから、と。
「おまたせ」
彼女は黒いワンピースに秋物の短いコートを着て現れた。元々大人びた彼女の肢体が黒でより強調されて見えた。普通の高校生が着る服ではなくて、もっと社会人とかが着るような服。勝手なイメージかもしれないが、私には彼女の格好がそう見えた。ちらりと見える彼女の胸元になんだかいけないものを見ているような気がして、少しだけ視線をさまよわせる。
「ふふ、萌々香の私服はかわいいのね」
背伸びをしたつもりだったのに、子供のように見えてしまう私の服装に少し恥ずかしくなる。入学式に先輩を見かけてから伸ばすようになった黒髪は肩甲骨のあたりまで伸びた。今日はその髪をハーフアップにしている。昨日頑張ってクローゼットを漁った結果、私の格好は薄いニットに細めのスキニという先輩に比べるとかなりカジュアルな格好になっている。
「先輩、なんだかいつもより大人っぽいですね」
「こういう服、着てみたかったから。私もこれでも結構背伸びしたつもりなのよ」
その言葉に私ははっとした。その理由に心当たりがあったからだ。
「でも、似合ってます」
「ありがとう」
先輩は「こっちよ」と言って私を案内してくれる。手には携帯、どうやら地図を確認しているようだった。
映画館には何度も家族とも中学の友達とも来たことがあったので場所は知っていたが、私は何も言わずに彼女について行く。彼女は映画館が初めての様だった。
「萌々香、ポップコーンは?」
「折角だから食べますか?」
「食べたいわ、色々な味があるのね。どれがいいかしら?」
少しだけ迷ってキャラメル味のポップコーンとコーラを買って映画館に入る。暫くすると部屋が暗くなって映画が上映された。
女の人が主人公で、ど派手なアクションを決めるカッコいい映画だった。前評判通り、後味のいい面白い映画だったと思う。
途中一回だけ世先輩の方を見たら、何故か先輩は泣いていた。
声を漏らすことなく、彼女の頬に光る滴が流れ落ちる。私はその姿に一瞬呼吸を止めて見入ってしまった。そして次の瞬間に見てはいけないものを見てしまった気になって、スクリーンに視線を戻した。
「楽しかったわね」
「はい」
部屋が明るくなった。先輩を見たけれど、いつも通りの表情に戻っていた。泣いた跡すら残っていない。
「ランチにしましょうか、行きたいお店があるの」
立ち上がって先輩に私はついて行く。
「あの主人公かっこよかったわね」
「はい」
先輩が行きたかったところは中道を入ったところにある小さな喫茶店だった。ぱっと見営業しているのか営業していないのかすらよく分からない店だったが、かろうじて窓のところに『OPEN』という文字があるので開店はしているのだろう。慣れた様子で彼女はその喫茶店のドアを開けた。
「また来たのか、春菜」
店の中から渋い声がした。男の人の声だ。先輩の身体でその声を発した人の姿は分からなかったけれど、多分店の人だろう。
「おじいちゃん、今日は友達も連れてきたの」
「……珍しいな」
先輩が私の身体を引いて、喫茶店の中に入れてくれる。そこにいたのは目を丸くしている男の人だった。年齢は多分七十くらいだろう、私の祖父とそう年は変わらなそうだった。
「おじいちゃん?」
「そう、私のおじいちゃんなの」
その言葉の意味を理解した私は、慌てて頭を下げる。
「秋山萌々香と言います、佐々木先輩にはいつもお世話になっています」
「こちらこそ、孫と仲良くしてくれてどうもありがとう」
強面な人だけれど、少し表情を柔らかくしてそういうと小さく頭を下げてこちらに挨拶してくれた。
「好きなところに座りなさい。春菜、何を食べる?」
「私はいつもの。萌々香は何食べる?因みにおすすめはサンドイッチ」
「じゃあ、私も先輩と同じもので」
「飲み物はアイスティーでいいか?」
フライパンを持った店主が私を見て言った。多分、先輩の『いつもの』には飲み物も含まれているのだろう。
「あ、はい」
そう答えた私に「分かった」とだけ言うと、彼は店の奥へと消えた。
「こっちの窓際の席が私の特等席なの」
先輩は勝手知ったる店の中を案内してくれる。あまり広くない店内であったが、きっとこだわりがあるんだろうなと思うようなアンティークが並べられた素敵な雰囲気の店だった。
先輩に促されて窓側の席に座る。
「よく私ここで本を読みながら過ごすの」
「どんな本を読むんです?」
「色々読むわよ。普通に有名なものも読むし、古典文学とかも読むし」
この窓際の席で本を黙々と読んでいる先輩はとっても絵になるだろう。
少しトイレに行ってくるわね、と彼女は席を立つ。彼女がいなくなって少ししたところで、彼女の祖父が飲み物を持ってやってきた。
「ありがとう」
「え?」
いきなり言われた言葉に私はきょとんとしてしまう。
「あの子が友達をここに連れてきたのは初めてだ。きっと君はあの子にとって大事な友達なんだろう」
「……先輩が私をどう思ってくれているのかは分かりませんが、もしそうだったら嬉しいです」
「あの子はなかなか人を自分の懐にいれることがないんだ……昔はそうではなかったんだが特に妻が……あの子にとってのおばあちゃんが死んでからそうなった」
私は先輩が親しい人を作らない理由を知っている。
「……」
「あの子はずっと両親の都合で転校ばかりを繰り返してきたから友達が作りにくかったのもあるだろう。この街に来たのも高校生になってからだ」
「!」
成程、彼女が映画館に行く道を地図で確認していた理由が分かった気がした。
「春菜は君には心を許しているように見える」
だからどうかずっと友達でいてやってくれ、眉を下げてほほ笑む姿は彼女によく似ていると思った。
「はい」
私の返事に彼は優しく微笑んだ。
きっと彼女は彼には自分が死ぬことについて話していないだろう。もし彼がそれをしったらどうするだろうか。きっと悲しむだろう。でも家族なのに彼女の残りの時間を知らないのは。
私の脳味噌が揺れ動く。
言ってはダメだ、これは先輩と私だけの秘密。
「おじいちゃん、萌々香に変なこと話してないでしょうね?」
トイレからか帰ってきた先輩が少し眉を上げて立っていた。はっと、現実世界に私は引き戻される。
「別に、何も言ってない」
途端に表情を変えてぶっきらぼうにそう言った彼に先輩は「そう」とだけ言って席に戻った。
「お待たせ、萌々香」
「いえ」
それから私たちは映画の感想を言い合った。
あのシーンがよかった、あれは笑えた、と。でも彼女から涙の理由を聞くことはできなかった。もしかしたら暗がりで私の見間違いだったのかもしれない。
少しするとサンドイッチが運ばれてきた。
見た目は普通の喫茶店で出てくるサンドイッチだ。
「おじいちゃんの唯一の得意料理がコレ」
彼女の言葉につい店主を横目で見てしまった。失礼な、とでも言いたそうな視線をこちらに向けている。
「コレ食べると、なんか落ち着くんだ」
そう言った彼女の顔はとても優しかった。私はひと切れ目を手に取る。
ぱくり、
「あ、美味しい」
「そうでしょ?」
彼女はまるで自分の事のように自慢げにそう言った。
その日、私たちは彼女の祖父の喫茶店でお昼過ぎまで過ごして駅前で分かれた。彼女はいつも通り「またね」と言って私に別れを告げる。
私も「また屋上で」と彼女に返した。
家に帰って、お風呂に入って、夕食を食べて、いつもよりも早めにベッドに入った。
ベッドの中で私は先輩のことを考えていた。
彼女の祖父が言って言っていた『なかなか人を自分の懐にいれることがない』という言葉が頭の中をぐるぐるとめぐる。彼女が彼女の夢について話したのは私と、もう一人だけ。詳しくは知らないけれど、彼女はその子には嫌われてしまったと言っていた。きっと彼女は哀しかっただろう、切なかっただろう。誰にも理解してもらえないその夢の話を一人でずっと抱えてきた。
「どうして、私を選んでくれたんだろう」
ぼそりと、疑問が口から飛び出る。
家族にすら話していない秘密を私には教えてくれた先輩。
儚くて、手を離したら消えてしまいそうな彼女に私は何が出来ることは何だろうか。そして、先輩を見る度にドキドキするこの感情はなんだろうか、私は私の感情の名前を知らなかった。
その次の月曜日、その日は雨で屋上に行かなかった。
ふと彼女がいるかだけでも確認しに行こうかと思ったけれど、土砂降りの雨だったからきっと彼女もいないだろうと思った。
その日の夜、彼女から短いメールが届いた。
『暫く、放課後屋上に行けない』
その言葉に私は衝撃を受けた。
あれだけ毎日屋上に着ていた先輩が屋上に来れないだなんて、相当な何かが起きたに違いないと思ったからだ。
『何かあったんですか?』
『風邪ひいたの、多分数日学校にも行けないと思う』
そのメールを見て、多分彼女が今日も屋上にいたのではないかと思った。雨にあたって風邪をひいたのだろうか。私は屋上を覗きに行かなかったことを後悔した。
ごめんなさい、
そうメールを打ってから、消す。多分彼女はそんな言葉を望んではいないだろう。
『お大事にしてください、元気になったらまた屋上で会いましょう」
そのメールに対する彼女の返信は『うん』の一言だった。
それから数日私は屋上で一人きりで過ごした。
ドアを開けたら彼女がいるのではないかと淡い期待を抱きながら、フェンスに寄りかかって景色を見つめる彼女を探した。
誰もいない屋上は寂しかった。
同じ景色なのに色褪せて見えた。
そして私はこの頃毎日学校に来るのが楽しかったことを思い出す。なんとなく過ごしていた毎日がまるで違う景気のように見えた。
先輩が屋上に再び現れたのは金曜日だった。
「毎日のように会っていると、少し会わないだけで変な感じがするものね」
いつのも調子で彼女はそう言った。
彼女が休んでいる間、私は彼女当てのメールを書いては消してを繰り返した。結局、一通も遅れていないメールは下書きボックスに眠ったままだ。彼女からもメールが来なかった。メールを送るごときでこんなに気をもんだのは初めてだったし、彼女から何にも連絡がないことがとてももどかしかった。
「体調は大丈夫ですか?心配しました」
「私、元々喘息持ちだから風邪をひくと長引くのよね。……でももう大丈夫よ」
「それならよかったです」
少しぶっきらぼうにそう言った私に先輩はきょとんとした顔をした。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません」
「いや、その顔何かあるでしょう?」
「……」
私がなかなか理由を言わないので、先輩が不思議な顔で私の頬を突く。
「メールを……」
「メール?」
「先輩があれからメールを一通も送ってくれないので、少し寂しかっただけです」
「あら?萌々香もくれなかったじゃない。メール」
「……まぁ、そうなんですけど」
「でも、これからは注意するようにするわ」
彼女は私の方を見ないでそう言った。
あれ?なんだか少し顔が赤い?
「先輩、まだ熱あります?」
「え?ないわよ」
「顔赤いんですけど……」
「ちょっと顔だけ熱いだけ……」
彼女は手で顔を仰いだ。
最初私は彼女のことを綺麗ない人だと思ったけれど、関われば関わるほど彼女の内面の美しさを知る。こんな素敵な人が、夢の所為で沢山の人に囲まれて過ごすのではなく、教室の隅の方で過ごすのはもったいないとそう思う。
そう、もし予知夢さえなければきっと彼女は教室の真ん中でクラスメイトたちに囲まれて笑っていただろう。
その代わり私と会うことはなかったかもしれないし、こうやって秘密を共有して休日に出かけるような仲にはならなかったに違いない。ただの先輩後輩ではなく、友人とも違う、名前の分からない関係の私達。
私は彼女になら私の秘密を打ち明けられる、そう思った。
「あの、先輩」
「何?」
「私の秘密の話、聞いてくれますか?」
彼女は何も言わずに首を縦に振った。
「私、男の人が苦手なんです」
「……そう」
彼女はそれだけ言って私の次の言葉を待っている。
私はなかなか次の言葉を口から出すことが出来なかった。彼女はひたすら黙って私を待っている。
「――しょ、小学校の頃に……クラスの男子に服の中にダンゴムシ、入れられて。それで男の子怖くなっちゃって。それからは男の人と話せなくて。お父さんとか……子供とか、お年寄りとかは大丈夫なんですけど」
「うん」
私が本当に言いたいのは次の言葉だ。
「私、普通じゃないですよね」
普通じゃない、平均的でないことに人は排他的である。良い風に人と違うならいい。美人だとか頭がいいとか、でも私のこれは違う。
「別に普通である必要なんてある?」
彼女の言葉に私ははっと彼女の方へ顔を向ける。彼女は一笑していた。
「でも、おかしいじゃないですか……」
「萌々香は私が予知夢を見ることも、私が卒業式の日に死ぬという事もおかしいとは言わなかったでしょう?」
「……」
確かに私は先輩のことをおかしい人とは思わない。
「男の人が苦手だなんて別に変じゃないわ。世間的に言ったら萌々香よりも私の方が普通じゃないもの」
哀感漂う表情で彼女は息を吐いた。でもそれも一瞬だった。
「今は嫌いでいいじゃない。私、萌々香にもし彼氏が出来て私の事忘れられたら悲しいわ」
私は彼女の言葉に返事が出来なかった。
今までどこかで私はずっと悩んでいた。周りのクラスメイト達が男の子の話で盛り上がるのが苦痛なことを、自分がおかしからだと思い続けていた。苦しかった、きっと誰にも理解してもらえないと思ったから誰にも言えなかった。
きっと、先輩も同じように理解してもらえない気持ちを抱えて生きてきたのだろう。
「萌々香、ぎゅっとしてもいい?」
「はい」
抱きしめた身体は柔らかかった。温かくて、生きていることを感じられた。私は一人じゃない、そう思えた。
「先輩、今度はどこにデートに行きますか?」
ぽろりと零れ落ちた言葉に彼女は「次は図書館がいいかな。好きな本、教え合いましょ」と静かに言った彼女の表情は見えなかった。
二人で色々なところに行った。
時には彼女に家にお邪魔することもあった。
彼女の家はどこにでもあるマンションだった。わりと最近出来たのだろう、建物自体が新しかった。彼女の祖父の言っていたことは本当だったのだろう、家にお邪魔した時、彼女の母親は私の姿を見てとても驚いた顔をしていた。帰り際に「また来てね、これからも娘と仲良くしてね」とほほ笑んだ彼女の母親は、とても先輩に似ていた。
あっという間に冬が来て、久しぶりに降った雪で二人きりの雪合戦をした。意外と彼女は運動が出来るようで、私は一つも雪玉を彼女に当てることが出来なかった。ちなみに彼女は私に容赦なく雪玉を当ててきた。
「……先輩って何か球技してました?」
「ドッチボールを少々」
「少々って……」
どこかの調理番組のようだ。
私、北海道に住んでいたことも会ったから雪合戦は得意なのよ。
先輩はそういってもう一玉私に雪玉をぶつけた。成程、転勤ばかりしてきたという事は彼女の祖父から聞いていたが、そんな雪国にもいたのか。
「一年ってあっという間よね」
ふと、彼女が振り上げていた腕を下げてぽつりと零した。その視線が今は枝だけが残っている桜の木へと向けられていることに気付く。あの桜が咲くころにはきっと――。
私の隣で彼女がボールペンを握っている。
使い込んだ手のひらサイズの手帳の一ページを開いて、そこに書いてある字に向かって線を引いた。
「これは――完了と」
「あと、いくつ残ってるんですか?」
私はノートを覗き込むことなく、視線は屋上から見える景色に向けたまま尋ねた。ぺらりと、紙を捲る音がする。
「あと十個ぐらい?」
「疑問形ですね」
「んー、どう転んでも実現不可能かもしれないやつが一つあるから」
「どんなのですか?」
「教えない」
「……協力者なのに」
ふてくされるように言った私に先輩は意地悪そうに笑った。
「身体冷えちゃったし、中に入ろうか」
コートを着てきたとはいえ、まだ町がうっすら白く染まっている季節の屋上は寒い。
「そうですね。温かいものが飲みたいです」
「同感」
校舎に戻る階段に続くドアの方へ向かっていった先輩を私は小走りで追いかけた。
私は先輩がとても好きになっていた。
いや、先輩は最初から女神のように美しくて、一目見たときから好きだったけれど、もっと好きになった。唯一無二で、変えの利かない人。それを何と呼べばいいのか未だに私は分からなかったけれど。
一分は六十秒。一時間は六十分。一日は二十四時間。
時間は平等に進む。
うっすらと白かった町はそこにはない。コートを着込んできていたこの屋上も、コートが必要ないくらい温かくなってしまった。
校門では先生たちが明日の卒業式のための看板をせっせと設置しているのが屋上から見えた。
今日も少しだけ放課後に屋上に言ったけれど、今日は先生たちがあしたの卒業式の準備で校舎をうろついているから見つかったら怒られるかもとすぐに場所を変えた。
彼女がカラオケに行きたいと言うので、私は首を縦に振って彼女について行く。適当な部屋を選んで、二人で入って、歌う。彼女とカラオケに来たのはこれで三回目だ。歌が下手なわけではないけれど、彼女はいつも変な選曲をする。変な、というのは高校生らしくない、というやつで、彼女は私の両親が青春の頃に流行ったであろう曲や洋楽ばかり入れるのだ。
「先輩」
入れていた曲を全て歌い終わって、コマーシャルが流れる。
私の小さな声も彼女には聞こえようだ。先輩は私の方に顔を向けた。
「何?」
「先輩にお願いがあるんです」
いつにもない真剣な表情の私に先輩は少し不思議そうな顔を向けた。
「明日、家から出ないでくれませんか?」
私の言葉を先輩は黙って聞いている。私は彼女の顔をしっかり見ることができなかった。
「卒業式には出ないで、家の布団から出ないで、一日過ごしてはもらえませんか?」
「萌々香」
凛とした先輩の声がいつもと同じトーンで発せられる。
「嫌だ、私。先輩と別れたくない」
「萌々香」
「死んでほしくないです。大学生になる先輩と会いたいし、大人になる先輩も見たい、私の卒業式だって見に来て欲しいッ!」
「萌々香」
「先輩は!」
声が掠れる。
本当に死にたいんですか?
その言葉は口から出ることはなかった。それは彼女の手が私の口を塞いでいたからだ。零れ散る涙が頬を伝って彼女の手を濡らす。
「――萌々香、それ以上は言わないで」
絞り出された言葉。クシャリと歪んだ彼女の顔。いつも澄ました顔をしてる彼女がそんな顔をするのは初めて見た。そんな表情出来たんだ、場違いにもそう思った。
そっと口元から離された手。私は膝から崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
「私、先輩のことが好きです」
好きなんです、
どんなに愛の言葉を囁いても、嗚咽とともに流れて美しく発音できない。こんな呪詛のような愛の言葉は彼女を傷つけるだけだって知っているのに、止められなかった。
彼女は返事をくれなかった。
その代わり先輩はゆっくりと腰を落として私の身体を抱きしてくれた。
私は子供のように泣いた。カラオケボックスの部屋の中に私の泣く声が響く。先輩が泣いているのかは顔が見えなかったので分からなかった。時々伝わってくる彼女の身体の震えだけが、私のこの感情が私だけのものではないと信じさせてくれた。
ひとしきり泣いた後、先輩は私を椅子に座らせて自分も横に座った。私は彼女の顔を見ることが出来なかった。情けない、きっと泣き叫びたいのは彼女の方だというのに。
ぽつりと先輩が言葉を零す。
「私、萌々香と出会えてよかったよ」
「私、自分が死ぬ夢を見てからずっと生きる意味を探していたの」
声が震えている。
「毎日憂鬱で仕方なかった。死ぬまでの日を数えたりして、残されたこれだけの日で私に何が出来るんだろうって考えた」
彼女のこんな弱い姿を見たのは初めてだった。
最初に会った時から彼女はいつも凛としていて、私よりもずっと強い人に見えたから。
「誰にも話せなくて、やっと話したと思ったらその人は離れて行って。人が怖くなって……だから私は一人で死ぬんだって思った」
でもね、
「萌々香に会って私楽しかった」
ゆっくりと彼女の手私の手に重ねられた。震える手は温かくて、優しかった。
「もっと生きたいって思えるくらいに楽しかった」
「私、幸せだったよ」
ぎゅっと握られた手を、私は握り返すことしか出来なかった。同じ体温が彼女がまだ生きていると教えてくれる。
『あと十分です』という無情な店員の電話が鳴るまで私たちは一言も話さなかった。私たちはカラオケ屋の前で分かれた。
彼女は胸のところに卒業生たちがつける花をつけて、その場に立っていた。学校の入り口の桜の木の下。桜の木は色づいているけれど、私が初めて先輩を見た時よりも桜の花は咲いていない。まだ蕾の多いその木の下で彼女はいつものように凛と立っていた。
彼女だけではない、卒業生たちは表情豊かにその場に集まっていた。笑い声も、泣き声も聞こえる。皆の手には卒業証書が入った筒。彼女はすぐに私の存在に気付いたようで、クラスメイトと話していたが小走りで私の方へ寄ってきてくれた。
「萌々香」
「先輩」
『おめでとうございます』とは言えなかった。
彼女は今日死ぬのだから。
彼女はいつもと同じように微笑みながら私に「似合うかな?といってもいつもの制服と変わらないのだけど」と言った。ひらりと風に靡くスカートの裾は、私が初めて入学式で彼女を見た時よりも彼女の綺麗な足を少しだけ多く見せていた。
「はい、綺麗です」
私はそうとしか答えられなかった。
彼女のノートに書かれた消されていない内容の一部を私は知っていた。
『死ぬときは制服で死にたい』
だから彼女が死に衣装を制服に選んでいることも知っている。
「他のクラスメイトさんたちはいいんですか?」
「うん、いいの。別れは充分済ませてきたから」
「そうですか」
なんと、声を掛けたらいいのか分からなかった。
かける言葉が見つからない。
「ノートの、」
「ん?」
「先輩がやりたかったことは全部できましたか?」
その言葉に彼女は眉を下げて少し困った顔をした。その表情で私は彼女がまだすべてを消化し終えていないことを悟った。
「――今からでも、私に出来ることありますか?」
その言葉を待っていたかのように彼女は「うん」と言った。
「最後の一つだけまだできてないの。だからね、萌々香にお願いしたいんだ」
最後の一つ、そうか。そこまできたのか、私は彼女の心残りが少しでも消えることに安堵した。
「はい」
多少の無理は覚悟の上だった。
私にできることならなんもやるつもりだった。
「――してもいいかな?」
「え?」
なんと言っているのかよく分からなくて聞き返す。
「キス、してもいいかな?」
「え、誰と?」
「萌々香と」
「私ですか?」
声が裏返った。
「駄目?もしかして初めて?」
「……あ、はい」
どうしてこんな時に男性経験が全くないことを言わねばならないのか。少し顔が熱くなるのを感じた。
「萌々香とだからしたいんだよ」
彼女の目は真剣で、黒い瞳が私をまっすぐ見つめている。彼女の言葉が冗談ではないことが分かったからだ。多分私は彼女のことが好きだった。人はこれを本当の恋ではないというかもしれない。でもきっと私は彼女に恋をしたのだ。初めて会った時から、彼女は私にとって輝いて見えた。ただの憧れという言葉で片づけられない感情がそこにはあった。私は願わくば彼女も同じ気持ちであることを願った。
私は頷いた。
先輩は私の腕を引いて、校舎裏に向かった。
「ちょっと恥ずかしいね。萌々香、眼瞑って」
そう言って彼女は私の頬に手を当てて、唇が触れるだけのキスをした。柔らかい唇の感触が伝わってくる。初めてのキスの味は、なんていうけれど味は何もしなかった。
唇はすぐに離れた。
目を開けると、目の前に真っ赤な彼女の顔があった。顔が熱い、多分私も赤い顔をしているだろう。
「ごめんね、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「ふふ、萌々香はおもしろいんだから。萌々香のファーストキス、奪っちゃった」
どこかでみたCMの色っぽい女優さんのように彼女は笑った。
「先輩、顔真っ赤ですよ」
「萌々香も真っ赤だよ」
彼女が手を私の頬へ持って行く。両手で挟んで、ほっぺを優しく摘まんだ。
「ファーストキスは私が貰っちゃったけど、ラストキスはちゃんと好きな男の人とするんだよ」
「え?」
「私の分も大人になって、素敵な恋しなきゃ」
「でも、私……」
私の続きの言葉は彼女の人差し指に制される。先輩は笑っていた。
「萌々香、今までありがとう」
「わ、私こそありがとうございました」
「じゃあね、ばいばい」
またね、はない。彼女は私を一度だけぎゅっと抱きしめた。先輩の柔らかな胸の感覚がリアルだった。心臓が動いているのが感じられた。確かに今、彼女は生きていた。
「萌々香、好きだったよ」
それだけ言い残して彼女は背を向けて去って行った。
取り残された私は彼女の後姿を見えなくなるまでずっと見つめていた。
彼女の死を私はその日の夜に知った。
彼女はどうやら私の連絡先を両親に教えていたらしい。何度か彼女の家にも遊びに行かせてもらったため、彼女の母親の顔も声も覚えていた。 電話で彼女の母親は震える声で私に彼女の死を告げた。信号無視をしたトラックに轢かれて即死だったのだという。死ぬ直前彼女は思っただろうか、痛かっただろう、辛かっただろう、まだ生きたいと思っただろうか。
彼女は両親には自分の死のことも、予知夢の事も話していなかったようだ。
私は唯一の彼女の秘密を知る人間であり、ある意味の共犯者だったのだ。
「先輩、さようなら」
ずっと知っていた。
別れが来ることは二年前から知っていたというのに、涙が零れた。
彼女が最後に触れた唇を私は撫でる。
私のファーストキスは彼女が持って行った。その代わりに私は彼女のラストキスを貰った。
涙で濡れた唇は湿っていた。
あれから十年たった。
私はまだ生きている。普通のどこにでもいる社会人として毎日働いている。
男嫌いだった私だけれど、あの後大学に進んでゼミで一緒になった同じ年の男の子とそういう関係になった。彼はとても優しい人で、初めて男の人で怖くないと思えた。怖くない、と思えたことは私にとってすごく大きな出来事だった。
大学に在学中から付き合っていたその彼に、先日終にプロポーズされて、今度結婚することになった。
先輩は幸せになる私を許してくれるだろうか?
多分、優しい彼女のことだ。微笑んで「おめでとう」と言ってくれるだろう。
私は右手の人差し指で唇をなぞる。あの頃には塗ったことなどなかったルージュの跡が指先をピンク色に染めた。
多分、大人になった彼女はきっと綺麗だっただろう。鏡に写る私の唇に指先で色を付ける。鏡の奥で十八歳の、卒業生の花の付いた制服に身を包んだ彼女が微笑んだ気がした。
(了)
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