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 珍しく茅根(かやね)が手を挙げた。ぴんっとまっすぐに立った腕だった。どこも折れ曲がっていない。袖が下にずれて、あたしはそれを見つけた。  七月に入って文化祭・体育祭のシーズンに突入し、取り仕切るリーダーが選ばれる時期になっていた。あたしは例年通り崎谷か深瀬がやるんだと思ってた。でも、意外なことに深瀬は名乗りをあげず、深瀬は崎谷を推した。にやにやとした笑みで崎谷に任せたんだ。崎谷は、しょうがないなぁと嫌でもなさそうな雰囲気作りに勤しんでいた。  矢先、茅根が手を挙げた。  見事な優等生のあげかた。横断歩道を渡る時手ぴんっとをあげている人を見ているようだった。茅根の手は綺麗すぎて、むしろ見るのが恥ずかしかった。周囲をよせつけない圧倒的な挙手を払いのけるのは骨が折れるし、崎谷が文化祭も体育祭も兼任するのは重荷過ぎる。部活だってあるし、学生は忙しいし。だから、崎谷はリーダーを兼任せず、茅根は文化祭、崎谷は体育祭のリーダーって分担することになった。  その結果にあまりよく思ってない人がいたんだけどね。まあ、ここまで言ったら分かるだろうけど。  深瀬は崎谷のことをけっこう買ってたんだ。崎谷はへらへら笑ってたり、深瀬のノリに付き合っているように見えてあれでちゃんとリーダーシップがとれる。一人ひとりのことを気遣ったりするのは崎谷の方が一枚上手だったりするし。ただ度胸がないだけ。だから今回、深瀬は崎谷にリーダーをどうしてもやらせたかったんだと思う。深瀬は声がでかくって人のことを考えられない男子だけど、でもこれは深瀬なりの優しさもあったんだ。  あたしには深瀬がいらいらしているように見えた。だって席が近いし、いつも気が気でなかったからすぐに分かった。気をつかってプリントを渡しているときだって深瀬の表情が見えてしまう。  茅根はやぶをつついちゃった。あたしは電流が肌の上を走るのを感じて、この時だけは茅根のことを恨んだ。  男子って、よくわからない。プライドをばかにされただけで、こんなことでぴりぴりしちゃうし。  教室の流れが変化しても、行事は進むし、平常通り授業がある。お昼の時間の崎谷のいじりもある。その七月の夏休み前で変わったのは、崎谷へのいじりの度合い。ミッキーだけじゃあきたらなかった深瀬は新しいネタを要求し出した。体育祭とか文化祭とかで、ステージに立って一発芸をするから、そのために新作のネタを作れって命令してたみたいで、いろんなネタを編み出してた。どれもつまんなかったけど、深瀬は楽し気だった。教壇の前で相変わらずのばか笑い。あれ以来肩を叩くことは見かけなかったけど、いつ次の新たないじりがやってくるのか先が見えない。あたしはその先がやってきてほしくなかった。  あたしが崎谷と初めて話したのはそのころ。スーパーのお惣菜売り場みたいに、廊下にずらずらと絵が置かれていた時期だった。あたし達はその中から一枚選ばなきゃならなかった。実は、あたしの学校の文化祭では、各クラスから一枚、絵を選んで、その絵を文化祭期間に最優秀賞として、昇降口に飾ることになってた。あたしのクラスは一人一票、どれかの絵に票を入れて、最終その票が一番多い絵が選ばれることになった。選ばれるのはたいてい美術部みたくネームバリューがある人ばっかだ。それこそ値段を見て品定めするように、美術の時間にクラスの絵を鑑賞して、みんな面倒くさそうにどれに票を入れようか悩んでた。  そんなとき「井倉(いくら)の絵に票入れたし」崎谷がそう小声で恥ずかしそうにあたしに言った。もじもじと、「良い絵だな」と。  心の中を突風が抜けてった。  あたしの絵は、ただの教室の絵だったんだ。湿っぽくて、息ができない、水の中のような色を、透明水彩で空かすように描いてた、そんな絵。窓の傍には、よわっちくってほっそい、男子の影が一人。誰もいない教室の中にぽつり。その涙色をした教室に、窓からの夕凪を流れさせて、赤黄の輝きを窓から零れていた。  あたしはその影の背中を見たことがある。寂しげな背中で、いつも教室の湿っぽさの中に身を置いている。あたしは決してその人が弱くないと知っている。逆光になっている背中は光に向かって明日を見つめていたんだから。  クッキーが好きだって、言ったんだ。甘くて苦くて、口に入れるとぱさぱさして、水分が飛んで喉が渇くクッキーが。  その時から、あたしの絵は宝物。  みんなには秘密にしてたんだけど、あたしは学校の誰も知らない崎谷のツイッターのアカウントを知っているんだ。言わば、現実の自分を隠してつぶやくアカウントなんだけど。  そこにはね。 「僕はみんなの前に立つのは苦手だ。前に立つと教室を盛り上げなきゃいけないし。リーダーができる友達がうらやましいよ」  崎谷の呟きと教室の写真が載せられているんだ。そこは崎谷の好きな場所、放課後の教室で、クッキー柄の机が並べてあって、おもちゃみたいな黒板消しが置いてあったり。崎谷のネガティブな呟きに対して、温かみがある写真が載ってる。  だからあたしは、崎谷がつらかったことも、悩んでたことも、知ってるんだ。
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