8.虚しさ

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8.虚しさ

シャワーの蛇口をひねると、湯が頭から降り注ぐ。 いつもより温度を上げて、わざと熱くする。肌に残る粘る汗と、消えない指の感触を洗い流すために。 髪の先から滴が落ちるのを見ながら、俺は後悔のため息を吐く。 (由悠季(よしゆき)くん・・・由悠季くんっ・・・) (放して・・・くださいっ・・・先生っ) (来てくれたということは・・・期待していいのか・・・?) (仕事ですっ・・・) (他にも従業員はいるんだろう?それでも君が来てくれるのは・・・そう考えてはいけないのか) (違い・・・ま・・・っ・・・) 森岡先生の自宅のクーラーの修理へ行くと、なんと奥さんは婦人会の旅行で明日まで帰らないと言われた。 案の定、クーラーそのものはそれほどひどい状態ではなく、修理は15分程度で終わった。 冷たい飲み物を出され、それを一口飲んだところで後ろから抱きすくめられた。 首筋を舐められ、服の上から胸をまさぐられる。襟もとから手が忍び込んできて、肌を、乳首を直接弄ばれた。 森岡先生の手首を掴んで外そうとすると、下半身を押しつけられて驚いた。熱く硬くなったものが、尻に押し付けられた。乳首を弄る指は動きを止めない。 このままだと、本当にまずい。 本気で腕を掴んで身体を押しのけると、今まで穏やかに俺の耳元で囁いていた先生の声が、ぐっと低くなった。 足と尻の境目に指を滑らせながら、先生は言った。 (誰にも知られていないのに・・・どうやって発散してるんだ) (!!) (ここへ来て発散してもかまわないよ。僕なら発散させてやれる) どくん、どくん、と心臓の拍動が身体の中から響いてきて、耳がその音だけで一杯になる。 どうして俺はここに来るのをやめられなかったのか。 それは感情ではなく身体の奥から沸き上がる欲求に突き動かされたからだった。 中学生で男の手で開発させられてから、反動で多くの女性と身体の関係を持った。 男としてある程度の発散は出来ても、あの時初めて感じた、「開かれる」感覚は、どんな女性と寝ても得られなかった。 それを、ほぼ20年ぶりに思い出させられた。 理性ではどうにも出来ず、気づけば俺は森岡先生の治療院の前に立っていたのだ。 (君は・・・きっとボトムだね) 森岡先生の言葉で、ぞくぞくと全身が鳥肌で埋め尽くされた。 本格的に先生の手が俺の服を脱がし始めた時、俺は弾けるように先生を突き飛ばし、そのまま外に飛び出した。 車に飛び乗り、一直線に自宅に戻った。 弓は青い顔をして帰ってきた俺を心配して質問責めにしたが、それには答えずそのままシャワーに直行した。 あの時感じた鳥肌は、得体の知れない恐怖と、「ボトム」という単語で自分の隠された部分を言い当てられたため。 男と身体の関係を持ったことはない。 なのに、自分はおそらく「抱かれる」側なのだろうという根拠のない確信があった。 いつもより長くシャワーを浴びて出ると、弓が切羽詰まった顔でソファから立ち上がった。 「由くん!大丈夫?!」 「・・・大丈夫。水、一杯くれる?」 わかった、と言いながら弓はキッチンに走っていく。パタパタとスリッパを鳴らしてコップを持ってきた弓は、水を飲む俺の顔を黙って見上げていた。 「仕事で、何かあったの?」 「・・・いや・・・ちょっと、頭痛がひどかっただけ。心配すんな」 「薬飲む?」 「もう収まったから平気。・・・少し休むわ」 寝室に戻ろうとする俺の背中に、弓がそっと頭を寄せてきた。 「弓?」 「・・・添い寝しようか」 「急に、どうした」 「わかんないけど・・・すごく辛そうだから」 奇しくも30分前、森岡先生に抱きつかれた背中に、弓が身体を寄せてくる。 妻だというのに、森岡先生の時と寸分代わらぬ不快さが足下から上がってくる。 何が添い寝だ。 その手で、他の男に触れたくせに。 いや、違うな。 どうでもいい。 他の男に触れようと、他の男に抱かれようと、俺は何も感じない。 妻という名の他人。ただそれだけなのだから。 俺は、弓の頭をポンと叩いた。 「心配すんな。寝れば直る」 「由くん・・・」 「30分したら起こして」 俺はひとりで寝室に入った。 結婚当初に買った、クイーンサイズのダブルベッド。このベッドで弓を抱いたのはもう1年以上も前になるだろうか。 仰向けに寝転がって、俺は両手両足を投げ出した。 俺は一体なにをしているんだ。 好きでもない女と暮らして、浮気されて、男に誘われて、逃げ出して。 このままずっと、こんな思いを持って暮らしていくのか。 可もなく不可もなく、大切なことを気づかないように感情に蓋をして。 俺の瞼の裏側に、ひとりの男が浮かび上がる。
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