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9.祭り
「あ、由くん、あれあれ、綿飴売ってる!」
森岡先生のことがあってから10日あまり、この町で夏祭りが行われた。
一週間続く、短い夏を楽しむ唯一のイベント。
弓に無理矢理連れ出されて歩いた屋台の並びは、母親にもらった千円札を一枚だけ握りしめて、家を飛び出した子供の頃を思い出させた。
ラソンブレの前にグリーンのテントを見つけると、弓は嬉しそうに駆けだした。
「綿飴ふたつくださーい」
テントから顔を出したのは、葉山だった。
「あれ?あ、也くんだ」
也くん?
いきなり馴れ馴れしいな。
「え・・・あ・・・」
「也くんが綿飴巻いてる!あ、あたしそのピンクがいいな。何味?」
「い・・・いちご、です」
ほら、葉山が戸惑ってる。
「じゃあいちごひとつと、由くんは?どれにする?」
「俺はいいよ」
俺の妻は、夫の食べ物の好みを覚えない。
「なんでぇ、一緒に食べようよ」
「甘いの、苦手なんだよ」
「そうだっけ」
「・・・覚えろよ、いい加減」
頬をぱんぱんに膨らませる弓は、とても30には見えない。そもそも幼いのだ。
葉山は複雑な表情で弓から300円を受け取っている。
俺の方をちらりと見たが、すぐに次の客の応対に追われている。
ピンクの綿飴の袋を持って、走って戻ってきた弓は俺の腕に絡みついた。最近やっと痛まなくなってきた腕。それをぎゅっと掴むあたり、無神経なのか、あざといのか。きっと、痛い、と言えば周りに見せびらかすように上目遣いで「ごめんね」と言ってウエストに腕を絡めてくるのだ。
それよりは腕の方がマシだ。
葉山に軽く手を挙げて、俺と弓はテントから離れた。
商店街を歩行者天国にして、出店を出しているあたりをふたりで歩いていると、向こうから女性の3人組が歩いてくるのが見えた。
「あ!弓!」
中の一人が声を上げた。
3人のうち、1人は浴衣姿、あと2人はそれぞれ、ジーパンにTシャツと、麻のふんわりしたワンピース姿だった。
ワンピースを着た子が、小走りに寄ってきて弓とハイタッチした。
「弓、久しぶり!あ・・・ご主人ですか?」
「あ、はい、ども」
俺が作り笑いで会釈をすると、後から追いついた2人も合流した。
「え~、旦那さん、めちゃめちゃカッコいい!」
「高校の同級生なんですよね?初めまして、岡田です」
「木谷で~す」
「杉原です!弓からいつもお話聞いてます!」
次々自己紹介されるが、名前は覚えられない。弓の小学校の時の仲良しグループだという。
通行の邪魔になるのもかまわずに、彼女たちはわいわい話し始めた。俺はその様子を少し離れてぼんやり見ていた。
「ねえ、これから「ブラン」に行くんだけど、弓たちも行かない?」
「ブラン」というのは、翌3時まで営業しているカフェバー。若い頃からよく利用している、なじみの店だ。
しかしそこに、女4人と俺というのはどうにも気が進まない。根ほり葉ほりいらんことを聞き出され、弓がべたべたに惚気るのが目に見える。
「だって。由くん、行こう?」
「俺はいいよ。行ってきたら?」
「行かないの?一緒に行こうよ」
「俺は明日も早いから。楽しんでこいよ」
「え~・・・でもぉ・・・」
ちらちら友人たちを見ながら、悩む振りをする。行きたいと顔に書いてあるというのに。
昔からこうだった。自分の思い通りに進むように、相手を促す。
仕方なく、俺は「弓のお友達」に向かってにこやかに言った。
「すみませんが、俺は明日早いので失礼します。こいつをよろしくお願いしますね」
「こいつ」と言いながら弓の頭を撫でたのが効いた。彼女たちは俺の仕草がカッコいいだのなんだのと言いながら、弓を連れて露店の並ぶ商店街に消えていった。
ひとりになって、急に身体の力が抜けた。
帰ろう。
帰って、風呂に入ってビールでも飲んで、寝よう。
そう思って歩き出した。
途中、お面を頭に乗せて歩く小さな男の子と、母親らしき女性とすれ違った。
男の子は大きな綿飴の袋を持っていた。テレビアニメのヒーローが描かれた青い袋。それをぶんぶん振り回すものだから、母親にたしなめられている。
綿飴。
俺は携帯を取り出した。
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