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10.名前
「葉山、こっちこっち~」
自分でも驚くほど上機嫌な声が出た。葉山は小走りで近づいてきて、俺の顔を見て目を丸くした。
「もう出来上がってんじゃないすか・・・あ、俺ビールください」
俺は目の前の刺身や塩キャベツを指さして言った。
「ここの肴、うまいのよ。酒が進むのなんのって」
言うほど食ったわけではない。うまいのは本当だが、とにかく酒が進む。
はは、と笑いながら葉山は俺の横に座った。カウンターしか空いていなかったが、こういう時は座敷よりこっちがいい。
葉山の注文したビールが届いて、グラスを合わせる。乾杯して、お互いぐっと煽ると、葉山が小さく「うまい」と呟いた。
追加で頼んだキュウリの浅漬けが運ばれてきて、葉山がちらりと俺に視線をよこした。
食えよ、と言ったら、嬉しそうに箸を伸ばした。好きなの?と聞いたら、キュウリ好物なんです、と返してきた。
キリギリスか。
「葉山ぁ」
俺は葉山が浅漬けを咀嚼し終わるのを待って尋ねた。
「はい?」
「なんだよ、也くんって」
「・・・はい?」
鳩が豆鉄砲食らったような顔。こいつ、気づいてなかったのか?
俺はわざとらしくため息を吐いた。
「さっき、弓が、也くんって呼んでたじゃねえか」
葉山の箸が止まった。そして間を空けず、すぐに反論した。
「・・・俺もよくわからないんですよ。そうやって呼ばれたことなんかないんですけど」
「気に入らねえなあ」
「な・・・何もないですよ、弓さんとは」
葉山と弓。
ああ、普通はそう考えるよな、確かに。しかしこっちもかなり酒が回っている。勝手に喋り出す俺の口は、本日も通常営業だ。
「・・・お前、馬鹿か」
「へ?」
「弓より俺の方が、お前とつき合い深いじゃねえか」
「ええと・・・」
よくわからない、という顔で葉山は俺の顔をのぞき込んだ。
もうあとは野となれ山となれ。
俺は半ば自棄で、こう言った。
「なのになんで、俺が名字で、弓が名前呼びなんだよ」
「いや・・・それ俺がどうにか出来る問題じゃなくないすか」
「じゃあ俺も名前呼びする」
「ど・・・どうぞ・・・」
「名前なんだっけ」
「・・・・・・」
「冗談だって!んな顔すんなよ」
不安そうな葉山が面白くて、俺はげらげら笑った。
「なりひと、だろ?言いづれぇな」
「・・・親に言ってくださいよ」
葉山は頬を膨らませた。ぷい、と横を向く。俺はカウンターに頬杖をついて葉山の顔をのぞき込んだ。
「じゃあ、也。なり、って呼び捨てなら、弓よりレベル高いよな」
「なんのレベルっすか」
「うーんと、親密度?」
どうするんだ俺。これはもう取り返しつかないぞ。酒、というのはつくづく恐ろしい。
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