11.高3の秋

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「・・・くん、(よし)くん!」 揺らされて目が覚めた。 玄関の上がり框で仰向けに倒れていた。青い顔をした弓が俺をのぞき込んでいる。 「どうしたの?!しっかりして!」 弓は商店街で別れた時と同じ、浴衣姿だった。どうやら俺の少し後に帰宅して、玄関の上がり框で酔いつぶれた夫を発見したらしい。 「・・・ゆみ・・・」 「もう、こんなになるまで飲んだの?明日の朝、早いんじゃなかったの?」 「・・・ああ・・・うん・・・」 「とにかく風邪ひくから、中に入ろう?」 「・・・うん・・・」 弓に助け起こされ、俺はやっとの思いで立ち上がった。壁をつたってなんとかリビングについた。 冷たい水か喉を通り過ぎると、ついさっきまで(なり)と飲んでいたことを思い出した。 あの水のボトルは、どうしたっけ。 ぼんやりする頭ではろくに考えられない。 弓が何か言っている。飲み過ぎてるから風呂はやめとけ、とかそんな事だと思う。 テーブルの上に俺の携帯が置いてある。 よくこんなに酔っぱらって、落とさなかったものだと自分自身に感心した。 それを取って、ほとんど無意識に操作する。 俺は心のどこかで、この失態を也に謝らないといけないと思っていたのだと思う。後で見返したそのメールは、酔っていた割にしっかりとした文章だった。 (昨晩は迷惑かけてごめん。也が嫌じゃなかったら、また飲もうな) 送信予約を翌朝に設定した。 高3のあの日。 「葉山」という名前を聞いて、俺は弓との約束を瞬時に捨てた。 それは本当に、小さな理由からだった。 一度だけ、葉山と会話を交わしたことがあった。 俺が落とした生徒手帳。 当時はまだ、学生が携帯電話など持つ時代じゃなかった。唯一の身分証明であり、女子ならその中には好きなアイドルの写真、男子なら人には言えないラテックス製の何かを挟めている奴も少なくなかった。 生憎俺は特に何も挟めておらず、落としたことすら気づかない始末だった。 が、ある日、下級生に呼び止められたのだ。 (仁科先輩) 振り向いたそこにいたのは、小動物のようなおびえた目で俺を見上げる、がりがりの1年男子。 当時の俺と言えば、金髪と耳にずらりと並んだピアス、制服はひどく着崩していたし、なんと言っても近づくとシメられる、という評判が一人歩きして、後輩は滅多なことでは寄ってこない。ついでに最上級生と下級生との体格差はかなりのもので、10cmはでかい俺に話しかけるのは、さぞ怖かったことだろう。 (なに?) 唯一の救いは、愛想が良かったこと。危害を与えてこない相手には、基本笑顔で対応を心がけていた。 本来俺は、優しいのだ。 1年生は少しほっとした様子で、両手で何かを差し出してきた。 (こ・・・これ・・・) 雨に濡れて汚れ、表紙の端が破れかけている生徒手帳。 (え?) (先輩の・・・) (俺の?) ぱたぱたと全てのポケットを確認して、確かに手帳がらどこにもないことがわかった。 (体育館裏に・・・落ちてて・・・) 体育館の裏と言えば、つい先週、つっかかってきた隣のクラスのやつとやり合った場所。その時に落としたのか。 あんな場所、喧嘩する以外に使う奴がいたとは。 (ああ!あの時か・・・お前、拾ってくれたの?) (はい、あの、乾かしたんですけど・・・すみませ・・・) ん、はかすれて聞き取れなかった。濡れて乾いた紙が波打っていて、分厚く広がっていた。泥汚れを拭き取った形跡もあった。 (せっかく拾ってくれたのに悪ぃけど、こりゃ再発行だな) 俺はぱらぱらと手帳の中身を確認した。そもそもほとんど使わないので、なくても困らない。 (こんな汚ねえの、触らせて悪かったな。サンキュ) (いえっ、・・・あ、あのっ・・・) (ん?) (捨てるん、ですか?) (ああ・・・使えねえしなあ。捨てるか) (・・・それ・・・貰ったら・・・だめですか) (へ?) おかしなことを言う奴だと思った。が、その顔を見て、俺の心臓が聞いたことのない音を立てた。 そいつは顔を赤くして、唇を震わせて、俺の目をじっと見ていた。 こんな汚い、使えない手帳。 多分、そいつが抱く感情に気づいてやれるのは、俺だけだと感じた。 (・・・やるよ) (本当ですか?) (物好きだな) ありがとうございます、とそいつは90度に身体を折り曲げて言った。この日一番の声が出ていた。 俺はその時、がりがりで怯えた目のそいつに、何か特別な感情を持ったわけではなかった。 ただ、俺だけは解ってやらなくては、と思ったのだ。 俺の生徒手帳で、ほんの少しでも生きやすくなるのなら、と思った。 それからしばらくして、その下級生が「葉山(はやま)也仁(なりひと)」という名前だと知った。 この町で一番の老舗ホテル、ラソンブレの跡取り息子だということも。
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