4.歌

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4.歌

葉山(はやま)!」 今日は久しぶりのラソンブレだった。 ロビーは珍しく閑散としていて、フロントデスクを見ると葉山がひとりでパソコンに向かっていた。 俺の顔を見て嬉しそうに頬を緩めたが、すぐにビジネスモードに切り替わる。相変わらずお堅い。 「ご苦労様です。先日はありがとうございま・・・」 「なんだよ堅苦しいな」 「・・・仕事中なんすよ」 声を落として、葉山はあたりを見回した。なぜだか俺もつられて小声になる。 「俺だって仕事中よ?なあ、それよりさ・・・」 自分も全く同じ素振りをしてしまう。あたりを確認し、さらに声のボリュームを落とす。 誰かに聞かれたところで、本当はどうだっていいのだが。 「(ゆみ)・・・レストランとかに来てねえ?」 「え?」 葉山の表情が強ばる。 「・・・お見かけしてませんが」 弓と葉山は同級生だったことがある。葉山の様子から、ヤマが当たったことを知った。 「・・・そっか。ありがと、悪いな」 業務上、葉山はたとえ相手が俺だって、客のプライバシーを守る。 いや。 こいつのことだ、ホテルマンじゃなかったとしても、本当のことは決して言わないだろう。 葉山はいつだって俺を見てる。 俺の、心の裏側を。 ラソンブレの仕事を終えてすぐ、近くの商店街で仕事をしていた若い従業員から電話があった。 飲みに行きましょうよ、と言われて、いいよと即答すると驚かれた。 (何驚いてんだよ) (いや・・・いつも、「うちのに聞いてみる」っていうじゃないすか) (・・・いいんだよ、たまには。で?どこ?) (日本酒の「(さえ)」どうっすか) (いいね、わかった) 電話を切ったあと、俺は弓に遅くなる、とメッセージを送ろうとして、やめた。 酒はまあまあ強い。 従業員の八嶋(やしま)、もうひとりは同業者で年の近い佐々木(ささき)という男と3人で飲み始めたのは、19時半だった。 この佐々木というのは隣町の高校出身で、当時俺と何度かタイマンを張ったらしいのだが、申し訳ないことに全く覚えていない。そういう相手が多すぎたのだ。 60代のママがひとりで切り盛りする店で、俺たちが行くと毎回ガキ扱いされる。今日も今日とてそれが楽しい。 「大丈夫だったんすか、今日」 「あ?」 「弓さんですよ」 「へーきへーき」 俺と向かい合って座っている八嶋との会話に佐々木が口を挟む。 「なんだ、仁科(にしな)、恐妻家?」 俺が答える前に八嶋が威勢よく喋り出した。 「逆っすよ、逆!仁科さんはめちゃめちゃ愛妻家っすから!心配かけないためにいつも連絡入れてますもん・・・ってか、超美人すよね、俺、あんな奥さんもらったら毎日ダッシュで帰りますよ~」 「・・・まあ、確かに・・・顔は、な」 「顔は、って!弓さん優しいし、めっちゃ愛されてるじゃないすか!」 「・・・はは・・・だよな」 佐々木が、八嶋に見えないように俺の背中をポン、と叩いた。そして言った。 「・・・まあ、結婚するとそれだけじゃねえよな。いろいろ日常のややこしいこともあるんだぜ。八嶋は結婚に夢見すぎなんだよ」 つきあいの長い友達や毎日一緒に過ごす仕事仲間よりも、かつて本気で拳を付き合わせた奴の方が、事の真相に気づいたりする。 八嶋は、夢見たいんですよ、見させてくださいよ、と言いながらつまみを口に放り込む。 その会話はそこで終わったが、俺は少し気持ちが沈んでしまったのか、酒のピッチが上がった。 「由悠季(よしゆき)ちゃん、1曲歌わない?」 ママがカウンターから声をかけてきた。 なんとも絶妙なタイミングだった。どうやら気分転換をさせてくれようとしているようだ。 おっ、と佐々木が声を上げる。 「いいねえ、久しぶりに聞きたいよ、仁科の美声」 「美声じゃねえし。・・・ここんとこ全然歌ってねえけど・・・」 「仁科さん、あれ歌ってくださいよ!おはこのやつ!」 八嶋も嬉しそうにぱちぱち手を叩く。そうとう酒が回っているようだ。 にっこり笑ってマイクを差し出すママの顔を見て、俺は観念して立ち上がった。 特別うまいとは思っていないが、歌うのは好きだった。 高校時代、言い寄ってくる女子にカラオケで流行りのアーティストの歌を歌ってやると、だいたい釣れた。男連中だけで行くと、3時間は居座る。 最近は馬鹿みたいにテンポの早い流行りの曲より、子供の頃によく親父が歌っていたような歌謡曲ばかり選んでしまう。 前奏がはじまり、マイクから顔を背けて咳払いをした。 歌い始めると、調子が戻ってくる。俺たちの他に一人で飲んでいた中年男性が口笛を吹いてくれた。 サビに差し掛かった頃、入口のドアベルがカランと鳴って、新しい客が入ってきた。 二十代後半くらいの女性が二人、入ってくるなり俺の方を見た。音量が大きすぎたのか、ボリュームを絞ろうと思った矢先、知っている顔が目に飛び込んできた。 葉山だった。 あとから考えれば、最初に入ってきた女性たちのひとりは、ラソンブレのフロントに立っている子だったのだが、俺の目にそれに気づくより先に葉山の姿を見つけてしまったのだ。 「仁科さん!」 女性の一人が声を上げた。それで顔見知りだと気づいたが、俺は反射的に葉山に向かって右手を上げた。しまった、と思ったが、彼女たちがきゃあきゃあ言いながら振り返してくれたので、何とか誤魔化すことができた。 葉山の顔が、一瞬嬉しそうに微笑んで、すぐにポーカーフェイスに戻ったのを気づいたのは多分、俺だけだろう。
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