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5. 落書き
「先輩、歌うまいんすね」
「そっかあ?声でかいだけだよ」
葉山たちが合流して、急ににぎやかになった。八嶋はわかりやすく、フロント勤務の女性に目を輝かせている。後日聞いたところ、タイプど真ん中だったらしい。
既婚者である俺と佐々木のテンションは変わらないが、もう一人の女性がステージ上の俺を見つめている。
歌い終わって、どこに座るか席を探していると、その女性がこちら空いてます、と小さく手を挙げた。一人分空いて、反対側に葉山がいた。
俺は当然のようにそこに腰を下ろした。
お約束のように俺の隣に座った彼女が、自然に身体を寄せてくる。
俺は自然に、彼女から距離を空ける。
「仁科さん、也仁さんの先輩なんですよね」
「うん、2年上ね」
「也仁さんの高校時代ってどんな感じだったんですか」
葉山のことを聞きながら、さりげなく手の甲を当ててくる。どっちに興味があるのか知らないが、なにかと近い。
「葉山はねえ・・・ちょっと暗かったよ。なあ?」
葉山に向き直ると、ばつが悪い顔で視線を落とした。
「・・・そうっすね。今よりは・・・」
「そうなんですか?想像できないですぅ」
葉山の右の眉がぴくりと動く。機嫌が悪いときの癖。俺は葉山の顔をのぞき込みながら言った。
「物静かで、はしゃいだりするのは見たこと無かったな。ただ・・・」
葉山はこれを、覚えているだろうか。
「悪口とか言わない、優しい奴だったよ。曲がったことが嫌いでね。誰も見てないところで、校舎の落書き消したりとか。な?」
あの日は大雨だったのに。すっかり日が落ちても葉山はデッキブラシで校舎の壁を擦ってた。
相合い傘の下に書かれた俺の名前に、ごめんなさい、と何度も謝りながら。
俺は、物陰から見つめることしか出来なかった。
「え、すご~い、也仁さん!」
「すごくないよ・・・ってか、先輩、何で知ってるんすか」
「そりゃあ、先輩ですから。何でも知ってるさ」
葉山は口の中でなにかぶつぶつ言っていた。まさか俺が、あの光景を見ていたとは思わなかったんだろう。
しかし話題はそこで途切れ、佐々木がマイクを持って歌い出して、場は大盛り上がりとなった。
「あの、仁科さんってイタリアンとかお好きですか?」
「え?あ、うん、普通に」
「西町に新しく出来たお店、おいしいんですって。よかったら今度ご一緒しませんか?」
女性から誘われて断るのは失礼だが、だからといってここで「妻に聞いてみる」はよろしくない。実際聞くわけではないのだが、男連中相手なら便利な言い訳だった。
「そうですね、タイミングが合えば・・・」
「仁科さん、連絡先とか・・・って・・・」
「・・・えっと・・・」
妻は他の男と寝ている。
俺の携帯に女性の名前が一人増えたところで、彼女は気にしないだろう。
が、俺が求めていないんじゃ仕方がない。
悪いけどの、「わ」を言い掛けたとき、絶妙のタイミングで俺の携帯が震えだした。八嶋が最近若者の中で流行りまくっているグループの歌を歌いだした時だった。
ちょっとごめんね、と言って店の外に出て画面を見ると、そこには「葉山也仁」の文字。
通話ボタンを押す直前にコールは止まった。
店に戻ると八嶋は悦に入って熱唱している。葉山は手拍子でそれを盛り上げていて、俺の方を振り返りはしなかった。
八嶋の歌が終わったところで、俺は葉山に尋ねた。
「葉山、もう帰る?」
「え?」
「もう1杯つき合わねえ?」
「・・・行きます」
そう悩んだ素振りもなく葉山は答えた。まだなんとかして連絡先を交換しようとする例の彼女からなんとか距離を置くことに成功し、疑似合コンはお開きとなった。
その後は近くの俺の行きつけのバーに葉山と二人で入った。
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