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「ありがとな」
「・・・何がですか」
「さっき、連絡先聞かれて困ったとき、助けてくれたろ」
「そうでしたっけ」
「・・・葉山らしいな」
俺の目を見た葉山の顔が、照れ隠しでみっともなく歪む。昔から、表情筋がおかしいんだ、こいつは。うまく笑えないというか、仏頂面というか。
そういえば、と俺は続けた。
「お前のこと狙ってた子もいたよな」
「ああ・・・でも、先輩のとこの若い子とよろしくやってましたよ」
八嶋だ。アプローチが成功したらしい。女の子の方も、現金なことだ。
「お前もたいがい冷めてるよな」
「そんなことないですよ」
「・・・本当は優しいのにな」
「・・・・・・・」
普通、妻が浮気しているのだから、こっちだって少しぐらい、などと思うのだろうか。
さっきの子だって、なかなかの美人だし、スタイルも良かった。若干押しが強すぎたが。
俺は淡泊なのか。
いや。
淡泊よりも、きっと、もっとひどい。
「見合いすんだって?」
いつものやつだ。口の勝手なおしゃべり。どうやら飲むとこれが出てくる。
葉山は一瞬目を見開き、ぎゅっとグラスを握った。
「・・・誰に聞きました?」
「あー・・・あのな、弓がさ、梨子と仲いいんだわ」
葉山の目がさらに大きくなる。今にもこぼれ落ちそうだ。
梨子、というのは弓の学生時代からの友達で、葉山とは同学年。梨子の兄と俺は反りが合わずよく衝突した。
葉山と俺、そしてこの梨子という女の間には、深く埋まらない溝がある。
「・・・まだしてません。つか、したくないんですよ」
葉山はどこにもぶつけようのない怒りみたいなものを堪えているようだった。見合いの話が相手の女側から俺の耳に入ることなど、想像もしなかっただろう。
「でも、しなきゃならないんだろ」
「なんとかして阻止するつもりですけど」
「・・・そうか」
「・・・先輩、あの」
このときの葉山が発した「先輩」の単語は弱々しく、まるで学生時代に戻ったようだった。
よく注意していないと聞き取れないような声で葉山は続けた。
「さっきの・・・落書きのこと、なんすけど」
「うん?」
葉山が固まった。
俺はなんとなく、葉山が何を言いたいのか解った気がした。
が、こいつはきっと言わない。
雨の中、必死にデッキブラシを擦る葉山少年は、たぶんまだ「こいつ」の中でくすぶっている。
くすぶっているのは俺も同じ。
あの日の落書きが、今に繋がっている。少なくとも俺は。
「・・・なんでもないです」
「・・・葉山さあ」
「はい」
「俺が言えた義理じゃねえけど」
不安そうな目で俺を見つめ返す葉山。俺は勝手に上下する喉の音を聞いた。また口が余計なことを言い始める。
でも、それを俺は止められない。
「結婚って、いいこともあるけど、それだけじゃねえからさ」
「はい」
「よく考えた方がいいと思う、俺は。確かに梨子は弓の友達だけど・・・それとこれとは別だからさ」
偉そうに話し始めた割に、大したことは言えなかった。このくらい、はたちやそこらのガキでも言える。
ただ、葉山はひどく真面目に耳を傾け、大きく一度、うなづいた。
「・・・ありがとうございます」
「いや、礼言うとこじゃねえよ?」
「そっすね」
葉山は顔をくしゃくしゃにして笑った。
結婚のなんたるかなんて、俺にだってわからない。
俺はただ、葉山が傷つくのを見たくなかった。俺と同じ道を辿るとは限らないのに。
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