1. 日常

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1. 日常

「じゃあ、行ってくるね。明日の午後には戻るから」 「お義母さんによろしくな」 「うん。・・・・・・あれ、(よし)くん?」 「・・・ああ、はいはい」 目を閉じて唇を突き出す妻の(ゆみ)に、俺はいつもどおり行ってらっしゃいのキスをした。 彼女は満面の笑みで手を振ってドアを出て行く。 月に一度、実家の母親が足が不自由だからと、泊まりがけで世話をしに行くようになって半年。 今月は、今日がその日だった。 俺はドアの鍵もそのままに、シャワーに向かう。熱めの湯を浴びながら、仕事の段取りを頭の中でひとつひとつシュミレーションする。 今日も忙しい。 地元で一番の老舗ホテル、ラソンブレの配管修理が一番時間がかかるだろう。それが終われば、1Fのレストランで飯を食える。 あそこのAランチのハンバーグがうまい。いや、たまにはBのフライ定食にしようか。 シャワーを出て携帯をチェックすると、ついさっき出て行ったばかりの妻からのメッセージ。 (キッチンに、お昼のサンドイッチとジャーにコンソメスープ、入れてあるよ。食べてね) 確かにダイニングテーブルの上に、水色のハンカチに包まれたサンドイッチと、ごろんとした形のスープジャーが置いてある。 俺はそれをしばらく見ていたが、先に支度を終わらせることにした。 洗面所に戻り髭を剃り、歯を磨いて、髪に軽くジェルをつけて手櫛で整える。 下着と靴下、Tシャツを頭から被る。 きちんと同じ形、同じサイズに畳まれた下着やTシャツたちは、はみ出すことなく引き出しの中で整列している。 予備にTシャツをもう一枚抜き取って、箪笥の引き出しを閉める。 ハンガーにかけられた、洗いたての作業着を着て完成。 携帯を尻のポケットにつっこみ、車のキーを持ったところで思い出した。 キッチンに戻って、サンドイッチの包みとスープジャーを見下ろす。 少し考えて、サンドイッチは冷蔵庫へ、スープジャーは中身を子鍋に戻して、同じく冷蔵庫に入れた。 8:30。俺はいつもの時間に家を出る。 俺の妻は、他の男と寝るために、弁当を作って出かけていく。           ☆ 「仁科(にしな)さん、どうも」 「お世話になります。えっと、今日はどこでしたっけ」 「ボイラーなんですよ、すみませんね」 「了解しました」 ホテルラソンブレの前崎(まえざき)支配人はいつも明るい。ホテル自体がかなり古いのでちょくちょく呼ばれるのだが、ここの従業員はみんな感じがよくて助かる。 今日は他の従業員も忙しく、ここは俺一人。そのほうが気楽でいい。 ロビーを突っ切ろうとしたら、なにか雰囲気が変わっていることに気が付いた。 すっきりしている。そして明るい。 よく見れば、ご当地キャラクターのパネルや、チャペル前のモニターなど、雑多に並んでいたものたちが片づけられ、シックな調度品の本来の美しさが際立って見える。 「あれえ、なんかロビーの雰囲気変わりましたねえ」 「そうなんですよ。也仁(なりひと)さんのアドバイスで片づけたらすっかり綺麗になりまして」 「也仁・・・?」 「オーナーのご長男です。最近、こっちに帰っていらしたんですよ」 ここのオーナーの息子は、同じ高校の後輩だったはずだ。確か名前は・・・ そうだ、葉山(はやま)也仁(なりひと)。 そういえば、弓が同級生の男の子が東京から帰ってきてた、とかなんとか言っていたような気がする。普段、妻の話をちゃんと聞いていないからこうなる。 でも・・・葉山って・・・あの、葉山か。 「・・・え?そうなの?葉山、戻って来てるの?」 「はい、フロントに入っていただいて・・・今、事務所にいらっしゃると思いますよ」 俺はその場に立ち尽くしてしまった。 こんな突然、葉山也仁と再会するタイミングが来るなんて思わなかった。 なんなら、もう会うこともないだろうと思っていた。 俺は、コツ、と靴を鳴らして事務所から出てきた男を見つめた。黒い制服のジャケットを颯爽と着こなし、背筋をまっすぐに伸ばして歩いてくる。 前髪を上げ、襟元まできっちりと締めたシャツとライトグレーのネクタイ。穏やかな微笑みを口元に浮かべている。 これが、あの葉山? ひょろひょろのやせっぽちで、おどおどした瞳で俺を見上げてた葉山? でも、顔は面影がある。間違いない。 「・・・葉山・・・本当に葉山だ!」 葉山は足を止め、俺を見た。 驚いた。 都会に出ると、こんなに変わるものか。 「仁科先輩・・・?」 俺を見る目が変わっていない。多分冷静を装っているのだろうが、その奥にかいまみえる感情が、俺にはわかる。 「お前、本当に帰ってきてたんだな!噂は聞いてたけど・・・」 嬉しそうに葉山は笑った。が、噂、という単語に表情が曇る。そういうこところは変わっていないようだ。 「お久しぶりです・・・ってか、噂って・・・」 「弓に聞いてさ。覚えてない?山口弓。・・・今は、仁科だけど」 葉山の曇った顔が、今度は凍り付く。さらにその上にホテルマンの仮面を貼りつけて、感情のない作り笑顔を見せた。 俺はわざとに明るく言った。 「会いたいと思ってたんだよ。お前・・・立派になったなあ」 「・・・いえ・・・仁科先輩は、変わりませんね」 「そっか?すっかり老け込んじまってさ・・・こんな汚ねえし」 この仕事にやりがいを感じてはいる。が、目の前のキラキラした葉山を見ていると、勝手に卑屈な台詞を口が吐いた。 俺の背後で自動ドアが開く音がして、観光客らしき老夫婦が入ってきた。 フロントカウンターを離れ仕事場に向かおうとして、ちらりと葉山が接客している姿を盗み見た。 東京の有名ホテルで勤めていたという葉山は、学生時代には想像もつかないほど洗練された笑顔で、チェックイン業務をこなしていた。 俺は工具箱を持ち直し、ボイラーの修理に向かった。
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