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漫画は基本、俺が1人で製作している。 時折借りた事務所に行ってアシスタントに仕事を頼むこともあるが、ほとんどの作業を俺が賄っている。 だからこそ1つの話を描き上げるのにかなりの時間を要していた。その日も俺はテーブルに向かい、スポットライトがあたる中で『黒と白の女達』を描いていた。インクで濡れたGペンを原稿用紙の上に走らせ、キャラクターをなぞる。 描き始めた時は午後5時半だったが、いつの間にか部屋の時計は夜9時を刻んでいる。空腹も忘れて製作に没頭していた視界の端で、携帯電話が眩く光った。 知らない番号がガラスの上に浮かんでいる。長く続いた集中力が一度ストップして、俺は椅子の背に体を預けてから携帯を手に取った。 「はい、もしもし。」 耳を照らして呟く。携帯の向こうからは紙が擦れる音と、聞き慣れない声がした。 「どうも。日高さん。麻布警察署の金井です。」 思わず背を正し、俺は座り直した。相手が警察であると妙に緊張してしまうのは人間の性だろう。 「ああ、どうも。」 「この間言っていた、森田香奈という女性のことについて。目白署の知人に話を伺いましたよ。」 どくんと心臓が跳ねる。うまく言葉が出ずに、唇が異様に乾く。何故その時に不安を覚えたのかは、その後の金井の言葉で理解できた。 「えーっと、2年前に雑司が谷周辺で行方不明になったと。その後懸命な捜索がなされました。そしてちょうど1年前ですね。森田香奈さんは自宅で亡くなっていました。」 ある程度予想はしていたが、突き付けられることでより現実と苦しみが重く伸し掛かる。恋い焦がれた彼女はもうこの世界にいない。 しかしすぐに言葉の違和感に気が付いた。 「あの、自宅っていうのは…。」 「雑司が谷にある一軒家ですよ。森田香奈さんは2年前に買い物から帰る途中で行方をくらまし、1年後に帰宅するはずだった家の中で亡くなっていたんです。」 まるで意味が分からない。そんな空気を察知したのか、金井は電話の向こうでため息をついた。 「何故それを公表しなかったんですか。あまりにも不自然じゃないですか。」 紛れもない本音だったが、そんなことを警察に言ったところで意味はないのだろう。そう思っていた。だが金井は一度深呼吸をして言う。 「森田香奈さんと以前婚約関係にあった男性が、公表しないようにと方々に頼んだんです。」 「頼んだ、ですか。」 「ええ。都内の証券会社に勤める小日向健二さんという方と婚約していたそうなんですが、森田香奈さんが行方不明になる3日前に、彼女から離婚届を突き付けられたそうです。そのまま家を追い出されたそうで。」 ますます意味が分からなかった。 「それで、どうして公表をしないようにと頼んだんですか。」 その時、電話の向こうでごくりと唾を飲む音がした。金井は何か迷っている。 やがて彼は大きく息を吸ってから、小さく言った。 「圧死、していたそうです。」 「え?」 「部屋の真ん中で、ぺしゃんこに潰れて亡くなったんですよ。」 携帯を落としそうになった。森田香奈が部屋の真ん中で圧死していた?それではまるで、田代優と同じではないか。 「日高さんの同級生、それでいて特別な思いもあるからこそお伝えしました。ただの同級生であれば言いませんよ。なので口外はしないでください。」 「はい…。分かりました。」 金井から通話が切れるまで、俺は携帯を握りしめたままだった。その間から汗が滲み出ていく。じっとりと掌が濡れていった。 様々な感情が沸き起こっていた。 あの夏の日、夢を交わした彼女はもういない。 そして彼女は1年間行方をくらまして、部屋の中で圧死した。 俺は先程まで描いていた漫画に手をつけることが出来なくなり、その場に立ち尽くした。 夜は更けていった。
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