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茗荷谷駅で降りて春日通りに沿って歩くと、赤煉瓦の建物が聳え立っている。山形県の高校を卒業してから同級生と会うのは10年ぶりだった。 卒業生のほとんどが上京しているということもあり、一学年約150人の同級生たちは文京区の茗渓会館に集っていた。 広々としたホールには白い布がかかるテーブルが点々と置かれており、浮島の間を縫うように同級生たちはホールの中を泳いでいる。俺は数ヶ月前に銀座で購入したトロフィオのスーツに身を包んで、壁際に置かれた椅子に腰掛けていた。手に持ったシャンパングラスの中の液体は黄金色で、小さな気泡を浮かべている。しかし落ち着くことはなかった。 「ねぇ、日高くんって今どこに住んでるの?」 雑誌の取材やテレビ番組などで顔が割れているからか、周りには大勢の同級生がいた。同窓会は始まったばかりだが、既に出来上がっている者も多い。どこかで飲んできたのだろうか。 「日高の漫画、俺の息子がすごい好きでさ。サインくれよ。」 「ああ、いいよ。」 顔も名前も覚えていない同級生から色紙を受け取ると、唐突にサイン会が始まってしまった。色紙から携帯の裏面に財布、数十人の私物にサインを書いていると、1人の女性を見て俺は思わず声を漏らした。 「あ、宮川。」 「やっほ。私の娘もあんたのファンだからさ。」 丁寧に色紙を持ってきている宮川歩美とは3年間同じクラスだった。あの時は色気もなく細い糸のような目だったが、今ではすっかり大人の甘美な雰囲気を醸し出している。彼女から色紙を受け取って、俺は何気なく呟いた。 「あのさ。ちょっと聞きたいんだけど。」 宙翔の字をくねらせるように描く。娘さんの名前は?と聞いて、志織と書き加える。 「森田は今日来てないの。」 同窓会に参加しようと決意したのは、たったこれだけの理由だった。森田香奈の顔は今も鮮明に思い出せる。少しばかり日に焼けた笑顔、ぱっちりとした二重瞼に尖ったような唇はその当時から色っぽい。 俺がふと言葉にすると、宮川は一瞬だけ悲しげな表情を差し込んだ。フィルターを通したような顔で彼女は静かに答える。 「香奈はね、2年前に突然行方が分からなくなったの。」 「え?」 サインを書き終わっても俺は色紙を持ったままだった。それほど驚いていたからだ。3年間恋い焦がれていた相手が行方不明?頭の中で過去の思い出が渦を巻く。すると宮川の後ろから、顔も名前も覚えていない男性が首を伸ばした。 「日高、知らないのか。本当に突然だったらしいぞ。」 「そうそう。買い物帰りにいきなり行方が分からなくなって。警察も必死に探したらしいんだけど。」 そう言って宮川は黒い小ぶりの鞄から携帯を取り出し、画面の上に指を滑らせてから、こちらに見せる。画面いっぱいに写っていたのは、電柱に貼られているような張り紙だった。派手な文字に彼女の情報が記されている。 『さがしています 森田香奈 32歳(失踪時) 身長 161cm(失踪時) 体重 48kg(失踪時) ◯◯年◯月◯日夕方ごろ、豊島区雑司が谷の路上で目撃されたのを最後に、行方が分からなくなっています。』 紙から伝わる熱意に、思わず気圧されてしまった。どこか恐ろしさすら感じてしまう張り紙を引っ込めて宮川は続ける。 「正直、ここだけの話なんだけどね。香奈が以前勤めてた会社の上司がストーカー気質あったらしくて。前々から近くの警察署に相談してたらしいの。」 「それさ、本当なの?警察も調べたらしいけど何も証拠は出なかったらしいじゃん。」 「俺は前の旦那が怪しいと思うぞ。だって行方不明の直前に離婚って、余計に怪しいじゃないか。」 様々な憶測が俺の前で飛び交う。そんな中で俺はただぼーっとしていた。卒業後はあまり思い出さなかった。しかし同窓会と聞いて過去を清算しようと思っていたのだった。だがその相手は2年前に行方を晦ましている。リングに上がる前にノックアウトを喰らったような感覚だった。 いつの間にか唐突なサイン会は終わり、皆が森田香奈のことを話している。 彼女は生きているのだろうか。俺はゆっくりとその場から離れ、大きな窓の向こうに流れる川のような春日通りを眺めてから、森田香奈との思い出を掘り返していた。
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