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10
彼女を思い出す時はいつも夏の日だった。
担任の唐沢からプール掃除を頼まれ、古びた校舎から少し離れた場所で俺はモップの柄を握りながら、休み時間の校庭を眺めていた。ひどく暑い夏だった。
水滴が付着した大きな槽の中で、俺はいたずらにモップの先を壁に当てがっていた。半袖のワイシャツの袖からは玉のような汗が溢れ、スラックスの裾を捲っていたのを覚えている。
「日高くん。」
背後からかけられた声はラムネのビー玉のようだった。鼓膜をピンと弾くような言葉、振り向いた先で森田香奈は白い半袖のワイシャツに紺色のスカートを履いている。その当時はまだ隣のクラスにいる可愛らしい女子生徒という印象だった。
「どうしたの、森田さん。」
「私も先生から頼まれてるんだ。」
裾から覗く足は細く、小麦色が眩しい。突き刺すような日差しは肌の上で弾かれていた。
それから2人は黙々とモップの先を滑らせていった。会話を交わすこともなく、背を向けたまま清掃していく。俺はどこか緊張していた。可愛らしい女子生徒と同じ空間に2人きりという状況が初めてだったからだ。
強い光の中、モップを持ち直した俺はぐっと背を伸ばす。確か休み時間がもうすぐで終わるという時だった。彼女は背中越しに声をかけてきた。
「日高くんってさ、夢はあるの。」
一度だけ彼女の方を見たが、森田はモップを滑らせたままだった。俺は目の前の壁に目をやりながら答える。
「漫画家になりたいんだ。まぁでも、うちは漫画研究部もないし。下手くそだし。」
その頃から自分を卑下する癖があった。ぽつりと呟いたその言葉は、拭いたばかりの壁に溶けていく。少しばかり時間が空いた。5分くらいだろうか。ふと彼女の方を見たとき、森田はいつの間にか俺の前に立っていた。
やがて細い小麦色の指を差し出すと、俺の額を小突いてから、彼女は太陽のように笑った。
「じゃあさ、漫画家になったら一番に見せてよ。」
そう言う森田香奈を見て、俺は一目惚れしたのだった。ひどく暑い夏の日だった。
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