12

1/1
前へ
/58ページ
次へ

12

「次の取材は15時半からです。」 銀座の大通りを走るタクシーに乗り込み、俺は後部座席でマネージャーの言葉を聞いて頷いた。藤井は『首吊りの家』でデビューした時からの付き合いである。黒いショートカットにアーモンドのような目が特徴的だった。色気はないもののどこか爽やかさがある。隣で藤井は手帳を開いて何かを書き記していた。 車窓にはOLやカップルがブランド品の店の前を歩いている景色が写し出されている。何気なく外を眺めていると、水縹色のジーンズがリズムを刻みながら震えた。携帯の画面には母の番号が浮かんでいる。 「もしもし。」 「ああ昇太、今ちょっといいかしら。」 電波を通した岐子の声はひどく掠れていた。原因は分かっていた。 「実はね、私が昔働いていたパート先の向日さんが亡くなったらしいの。だからお葬式行こうと思うんだけど、あなたは来ないよね。」 思い出せる人物はいなかった。俺は一度も会ったことないだろう。 「行かないよ。これから取材あるから、切るよ。」 簡単なショートメールで済ませればいいのに、とは言わなかった。携帯から顔を離そうとすると駆け込むように彼女の声が聞こえる。 「昇太、昇太。」 「何だよ。」 「あんた、ちゃんとご飯食べてるの。」 一拍空いてしまったのは、母の心配そうな顔が浮かんだからだった。自分を心配してどこか悲しそうな表情を浮かべる岐子が、昔から嫌いだった。印刷会社を辞めた時も、父親に逃げられた時も、岐子は悲しそうな顔で俺を見て「大丈夫?」と心配するのだった。それがひどく胸を締め付けて、居た堪れなくなる。俺はぶっきらぼうに言った。 「食べてるよ。じゃあ、切るよ。」 もう駆け込むような声を聞きたくない、それを行動にして俺は電話を切って携帯をポケットにしまった。 「お母さんですか。」 長くため息をつくと、隣に座る藤井が言った。返答する気力は無かったものの、妙なプレッシャーのような感情を紛らわすために俺は呟いた。 「親父に逃げられてから、体が弱くなったんだ。最初はあんな田舎じゃなくて俺の家に引っ越してこいって言ったんだけど、迷惑はかけられないとか訳の分からないこと言ってさ。」 目に見えて岐子が老けたと感じたのはちょうど2年前だった。実家に帰った時に、顔の皺が増えていたのだ。元々笑うと顔がくしゃっとなる母だったが、その時に出来る皺が常に浮かんでいる。そのような感覚だった。 渋滞にはまってしまったせいか、道の真ん中で止まったままのタクシーの中で、俺は呆れたように言う。 「もうお袋も60歳だし。仕方ないけどな。」 「でも、心配なんですよ。先生のことが。」 そういうものなのだろうか。親になったことのない俺にとって、親の気持ちは分からない。しかし藤井は続ける。 「いつまでたっても子どもを心配してしまうのが親なんだと思いますよ。私も度々実家から連絡来ますし。」 そうか、と呟いた時に俺は窓の向こうで妙なものを見た。 「どんなに働いていても、どんなに稼いでいても、心配なんですよ。ましてや一人暮らしですし。先生は料理するようには見えないですし。」 視線の先、歩道に沿うように建ち並ぶビルとビルの隙間から気配を感じる。数十を超える通行人の中で、俺は隙間を見つめていた。黒い画用紙を押し込んだように暗い路地裏からぬうっと顔を覗かせたのは1人の女性だった。 喪服のように黒い服を着て、真っ白な顔をこちらに向けている。何よりも恐ろしかったのは、その女性の目と口が服よりも黒く染まっていたからだった。 俺はすぐに悟った。 あれは、人間じゃない。 「お見合いの話とか来ましたよ。とにかくタイプじゃなかったのですぐ返しましたけど。ああいう写真撮って女性に送るって、相当な勇気が要りますよね。」 女の霊は掻き分けるようにビルとビルの隙間から這い出た。全身を包む黒い服に、海藻のような濡れた髪を腰まで垂らしている。やがて女の霊は歩道を渡って、ゆっくり、ゆっくりとこちらに近付いてきた。俺は咄嗟に言った。 「運転手さん、まだ動きませんか。」 女の霊から目を離せなかった。いや、離そうと思っても離せないといった方が正しいだろうか。初老の男性はハンドルを握ったまま言う。 「すみませんね、どうも前方の方で片側走行やっているみたいで。」 「先生、取材の時間でしたら十分に余裕がありますから。大丈夫ですよ。」 遅刻するだとか、そういった不安ではなかった。突然ビルとビルの隙間から出てきた女の霊が今目の前にいるからだった。ドアを開ければぶつかってしまうほどの距離に、女の霊は立ち尽くして俺を睨んでいる。真っ黒に塗り潰されているせいで視線がどちらに向いているかは分からなかったが、それでも俺を睨んでいるように見えてしまった。 「でも結構遅いですね。事故なのかな?」 「いえ、どうやら電気工事しているらしいです。」 藤井と運転手の会話はくぐもってしまい、よく聞こえなかった。 女の霊はゆっくりと両手を挙げると、勢いよく車窓に張り付いた。ベタンッと音が鳴り響き、車内にも衝撃が伝わる。やがて女の霊は開かれた黒い口と目をこちらに見せつけながら、いたずらにタクシーを揺さぶり始めた。 その時だった。 ずるずる、ずるる、ずぅ どこかで聞いたような不快な音が聞こえる。 「あれ、地震ですかね。」 「いやー参ったなぁ…。ちょっとラジオつけますね。」 2人は気付いていなかった。車の揺れが、黒い女の霊によって引き起こされていることなど露知らず、2人は車内に流れ始めたラジオに耳を傾けている。俺は思わず言葉を漏らした。 「見えないのか。」 「え?何がですか?」 言葉を拾って聞き返す藤井の方を見ると、彼女はアーモンドのような目をぱちぱちとさせて、俺を見ていた。 「いや…。何でもない。」 俺はもう窓を見る勇気などなかった。 それからタクシーが動き出すまで、俺は自分の膝を見ていた。ダメージ加工が施されており、解れた糸の本数を数える。 タクシーがようやく動き出すまで、車は左右に揺れ続けていた。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

81人が本棚に入れています
本棚に追加