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足早に1週間は過ぎていった。『黒と白の女達』の執筆、実写映画の打ち合わせ、敷き詰められた予定をこなすだけで必死だった俺は、西麻布での一件などとうに忘れてしまっていた。 その日は製作会社での打ち合わせだった。キャストをどうするか、場所はどこで撮るのか、様々な話し合いは白熱していた。 「でも北国での撮影は必須ですよね。ここ、主人公が霊との対決を決心するシーン。感情も相まって白い風景が映えると思うんです。」 「じゃあ北海道あたりにロケハンか、再来月の頭には行ったほうがいいな。」 白い長机を囲み、数十人が話し合いを行っている。俺はその中間の席に座っていた。机の上には様々な資料に、『首吊りの家』の単行本が山のように積まれている。 打ち合わせは既に1時間半を超えていた。 温まった室内に、何かを叩くノックの音が鳴る。皆が扉に視線を向けて、プロデューサーが代わりに席を立って扉を開いた。 金井率いる警察官がその場に立っていた。 「麻布警察署の金井です。」 「ああ、金井さん。」 俺は思わず立ち上がって頭を下げた。この場には1週間前の出来事を知らない関係者もいたが、お構い無しといったように金井は部屋に入ってくる。俺の隣に立つと、怪訝そうな表情を浮かべた。 「日高さん、昨日の夜9時から11時まで、どこで何をしていましたか。」 何故人は年を経ていくと昨日の夕飯すら思い出せないのだろうか。頭の中のファイルを探るよりも、藤井が手帳を開くスピードの方が早かったようだ。彼女は開いたページを見てから、金井に言う。 「その時間帯は関係者と打ち合わせをしていました。」 「場所は。」 「渋谷の撮影スタジオです。」 そう言われてようやく思い出した。予定が詰まっているからこそ咄嗟に思い出せなかったが、映画撮影を担当するカメラマンとの話し合いを行っていたのだった。俺はそうそうと言ってから金井を見た。 「結構遅くまでやってましたよ。」 「そうですか。おい。」 そう言って金井は背後に立つ刑事に顎をやった。丸刈りの若そうな刑事は携帯を取り出し、どこかに電話をかけ始める。二、三言葉を交わしてから金井に耳打ちをして、電話を切る。金井は納得したように頷いた。俺は思わず聞いてしまった。 「あの、何かあったんですか。」 ふー、とため息をついて金井は腕を組んだ。悩ましそうな表情、呆れたような表情、様々な顔が切り替わっていく。 「実はですね、日高さんに暴行を働いた田代優さんなんですけど。あれから何度か事情聴取を行っていたんです。その間も何故か日高さんのせいで殺されると、同じ供述をしていました。しかし、昨日です。指定した時間に訪れなかったので田代さんのご自宅まで伺ったところ、彼は亡くなっていたんです。」 思わず息を飲んだ。あれだけ執念深く自分を殴ろうとしていた男性がもうこの世にいない。その事実にただただ驚いてしまった。金井はジャケットの内ポケットから手帳を抜いて続ける。 「葛飾区の自宅で亡くなっていたんです。しかしどうも自殺とは思えない状況でして。」 「はぁ…。一体どのような。」 どこか勿体振る様子なのは何故だろうか。金井は少しばかり迷ってから、意を決したように顔を上げて言う。 「部屋の真ん中でね、圧死していたんです。」 聞き慣れない単語だった。頭の中でその言葉を繰り返しながら、小さく呟く。 「潰されて亡くなった、ってことですか?」 「ええ。全身骨折に内臓破裂、遺体の損傷は見るに耐えないものでした。しかし部屋が散らかっている形跡も、誰かが侵入した形跡もなく、どうも事件性がないんです。」 まぁ、と言って金井は手帳をしまった。 「アリバイもありますし、一応形だけですから。お時間とってしまって申し訳ありませんでした。」 頭を下げて警察の群れは部屋から出ていく。嵐が去ったように思えたが、俺は頭の中にある人物を思い浮かべた。すぐに金井の後を追って部屋を出ると、廊下を歩いていく彼らに声をかけた。 「あの、金井さん。」 数人が振り返る。こちらにやってきた金井に、俺は声を低くして言う。 「雑司が谷の近くに住んでいた森田香奈という女性が行方不明になった事件、分かりませんか。」 一瞬眉をひそめたが、少しして彼は呆れたように笑って言う。 「日高さん、さすがに管轄外のことは把握していませんよ。」 「ああ、そりゃそうですよね…。」 言われてみればその通りだった。しかし心のどこかで引っ掛かっていたことを誰かに話したかったのだ。あわよくば少しばかり情報が欲しい、そうも思っていた。 「その女性とはどういう関係で?」 「高校の同級生なんです。その、3年間ずっと片思いで。この間の同窓会で会えると思ったんですけど、話を聞いたら行方不明だって…。」 思わず手を握りしめる。それは悔しさなのか、悲しさなのかは分からなかった。 「約束していたんです。俺が漫画家になったら、真っ先に見せてくれって。でも叶わなかった。」 力無く呟く。それが金井に伝わったのだろうか。彼はスラックスから携帯を抜いてから言う。 「雑司が谷ですよね。目白署に知り合いがいるので聞いてみますよ。」 そう言って電話番号を交換すると、それでは、と言い残して金井たちは廊下の角を曲がっていった。
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