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自宅から程近いところにある公園には、遊具が無い代わりに青々とした緑が敷き詰められていた。隆起の無い敷地内をぼんやりと眺めながらベンチに腰掛け、俺は平日の昼下がり、太陽の下で汗を流しながらぼんやりと過ごしていた。 木々の向こうにはビルが連なっている。都会の背景はぴくりともせず、青空の下を埋め尽くしている。ふと視線を右にずらしていくと、公園の近くに建つ雑居ビルが目に入った。 6階建、鼠色の外壁は太陽光を反射せずに佇んでいる。取って付けたような非常階段は風が吹けば飛んでいきそうなほど、脆い印象を受ける。 そこに人影が見えて、俺はビルから目を離せなくなった。 誰かがゆっくりと非常階段を上っている。目を細めると、それが女性であることが分かる。女性がたっぷりと時間をかけて非常階段を上っている。ただそれだけの光景にも関わらず、何故か視線が固定されてしまう。 やがてその女性は屋上に上がった。赤いワンピースに腰まで伸びた黒髪、遠くからでもその出で立ちは分かった。 その時に俺は気が付いた。 あのビルの屋上にはフェンスが無い。 思わずベンチから立ち上がる。まさか、と呟いた時にはもう既に遅かった。 青空の下、女性は屋上から飛び降りた。 乾いたような衝突音が鳴る。それはビルの壁に反射して、公園まで届いていた。 咄嗟にポケットから携帯を抜いて、警察への連絡先を立ち上げる。慌てて駆け出して公園から抜け、交差点を渡り、徐々に近付いていく。人混みを裂くように俺は急いだ。 多くのビルが軒を連ねる中心にぽつんと佇む雑居ビルは、細い路地裏を抜けた一坪の前に聳え立っていた。5分ほどの道程を走って、隙間を縫うように女性が飛び降りたビルの前に辿り着いた。 舗装されていない路地裏に、女性の姿はなかった。 辺りに隠れるような場所はない。それでも俺はこの目で見て、この耳で聞いたのだ。あの女性は確かに飛び降りた。そしてこの地面に叩きつけられた。 何か事件に巻き込まれたのだろうか。思わず辺りを見渡すも、捨てられた低俗な雑誌や、中身のない缶コーヒー、女性の影はおろか血液すらもない。一体どこに消えたというのだ。 訳も分からずに立ち尽くしていると、どこからか風の音がした。 びゅううううう 自分が入ってきた路地に吹く隙間風だろうか、そう思って通りの方に目を向けた時だった。 びゅうううううううううううううううううううううううううう その音が上から鳴っていることに気が付いて、空を見上げようとした時、あの女性が目の前の地面に勢い良く叩きつけられた。 「あ、ああ!」 思わず尻餅をついて後退る。真っ赤なワンピースに身を包んだ黒髪の女性の手足は拉げ、あらぬ方向を向いている。吐き気を催してしまったが、すぐに異変に気が付いた。 ずり、ずり、ずり、ずり 何かを掻き毟るような音は、女性の手が地面の表面を削いでいる音だった。何かを掴もうとするようなその動きに、俺はようやく思い知った。 この女性が着ているワンピースは最初から赤い色ではなかったのだ。 やがてゆっくりと立ち上がり、あろうことか女性はそのまま非常階段に足を踏み入れた。ゆっくりと鉄の板を踏んで、ゆっくりと上っていく。 この女性は何度も何度も飛び降りている。 俺は恐る恐る立ち上がってその場から離れた。路地を抜けて人混みの中に飛び込む。決して振り返ることも、立ち止まることもなく、逃げるように自宅へと急いだ。 遠くから乾いたような衝突音は繰り返し響いていたものの、それでも俺は止まらなかった。 いや、止められなかったのだ。
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