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見慣れた天井はいつも飴色だった。逆剥けのように木の板は禿げ、日の光に照らされて埃が視線の先で舞っている。薄い掛け布団を足で退けて、枕元にあるであろうタバコを探す。柔らかなパッケージに指先で触れてから握り締める。俺は布団から飛び起きてすぐ目の前にある低い机に向かった。 もう少しで完成だった。原稿用紙の上に割り振られたコマの中で、3ヶ月前に生み出した我が子たちが踊るように描かれている。表面がくすんだ赤いGペンを手に取り、蓋を開けたままのインクに先端を溺れさせる。その間にタバコを口に咥えて火をつける。慣れたルーティーンの中でふと前にある窓の向こうを見た。 練馬区大泉学園町に建つアパートは、東京に上京してきてすぐに見つけた俺の城だった。築40年にもなる木造アパートの一角から世界に誇る漫画を発信する。6帖の和室から解き放つ最高傑作。漫画家としてのストーリーはまだ始まったばかりだ。 山形の田舎で生まれ育った俺は地元の高校を卒業してすぐに、近くの印刷会社に就職した。小学校低学年の頃に抱いた夢は叶わないだろうと思いながら、退屈な労働と退屈な休日を過ごす。そんな生活が5年も続いたある日、心の中で燃えるような感情が爆ぜたのだった。 ビルすら無いあんな田舎町にも、全国展開する漫画雑誌は流れてくる。どの読者よりも早く漫画雑誌を手に入れることができた俺は、ある一冊を見て衝撃を受けた。俺よりも若いにも関わらず堂々と表紙を飾り、インターネット上でも名を馳せている。一度失いかけた夢に再び火が灯った瞬間だった。 すぐに会社を辞め、漫画家になるため東京へ。トキワ荘のような住居は見つからなかったものの、白い外壁が錆びた大泉ハイツは漫画家、宙翔の第1章としてはまずまずの場所だ。そう考えていた。 高校を卒業して、既に10年が経っていた。 顎に生えた研ぎ石のような髭を擦りながらGペンを滑らせる。ようやく手の動きが乗ってきた段階で、テーブルの端に置かれた携帯電話が振動を開始した。 硯のような携帯の画面には筧店長の字が並んでいる。俺は自然と漏れたため息を最後まで吐き切ってから黒い板を手に取った。通話ボタンを押して息を吸う。 「もしもし。」 「ああ、日高くん。明日なんだけどさ。伊東さんが急遽シフト入れなくなったんだ。だから代わって欲しいんだけど。」 駅前のコンビニでアルバイトを続けてもう4年が経つ。俺は思わず舌打ちをしそうになったが、どうにか堪えた。 「いや、店長。俺明日は用事が入ってるんですよ。」 ふと壁にかかったカレンダーに目をやる。7月24日は赤いペンで囲まれている。 「ああそうだったね…。出版社に持っていくんだっけ。」 「ええ。今仕上げてる最中です。」 そうか、と言って筧は納得したようだった。 「じゃあ他の人に頼むわ、頑張ってね。」 そう言って電話は切れる。だが俺は知っていた。休憩室で漫画家の夢は子供染みていると言った筧の言葉を思い出す。だがここで苛立ちをぶつけてはいけない。ゆっくりと深呼吸して原稿用紙に向き合う。 たった1人の主人公があらぬ疑いをかけられ、突如法改正が為された日本で全国民と戦う。半年前から練っているプロットがようやくストーリーになっていく、その期待感が胸の中を満たしていた。
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