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頑張っている。俺はとっくに頑張っている。にも関わらず世間はその努力を評価せずに結果だけに固執している。出版社から出て沸々と怒りが浮上しはじめ、俺は駅の方面とは逆の道を歩いていた。 オフィス街を抜け、東京とは思えないほど緑が生い茂る公園に入る。ジョギングに精を出す老人や犬を連れて歩く主婦、労働の隙間を縫って体を休めるサラリーマンなどが緑の中に散っている。俺は空いているベンチの真ん中に腰掛けると、腕を組んで辺りを見渡した。 どういったものをネタに落とし込むかは、人のセンス次第だろう。だからこそ俺は街を眺めて人を観察するという行為を続けているのだ。どこかに良い物が転がっているかもしれない。雑誌に連載すら持ったこともないが、俺は漫画家だ。街に出てインスピレーションを沸かせるためにはこういう努力は欠かせない。だからこそ俺は胸を張って頑張っていると言える。だからこそそれを認めようとしない世間を憎むのだ。 苛立ちのせいか、俺はタバコを口に咥えていることに気が付かなかった。いつの間にか手にしていたライターで火をつける。紫煙を真っ青な空に向かって吐いて、俺は頭の中を空っぽにしていた。何も考えず、ただアイデアだけが降りてくるためだけの空間を作り出す。しかしそんな時間はあっという間に過ぎながら、いいネタは一つも浮かばない。気が付けば俺は苛立ちを足に流していた。 貧乏揺すりをする足のポケットがリズムを刻んで震える。雄散社からの電話かもしれない。思わず頬が緩んで携帯を手に取り、画面の文字を見て大きくため息をついた。俺は恐ろしく不機嫌になっていた。 「何だよ。」 耳を画面で照らす。山形県の田舎町から東京のビル群に届く会話は、ひどく退屈で単調なものだった。 「昇太、お母さんよ。最近どうなの?実家にも帰ってこないし。お母さん心配よ。」 日高岐子は今年で56になる。俺は母親からの電話が嫌いだった。 中学生の時に外で女を作って出て行った父親を見ても、あの人もまだ男だからという意味の分からない理由で肯定し、一見馬鹿馬鹿しい俺の夢も素直に応援してくれる。だからこそ今の状況を心配するその声が、人生を急かしているように思えてしまう。そんな俺の気持ちなど露知らず、岐子はのんびりとした声で言った。 「漫画の方はどう?いい絵は描けているの?」 「ああ、今ちょうど描いてたところだよ。」 平然と嘘をつくようになったのはいつの頃からだろうか。世間とすれ違う現状をひた隠すために、いつしか身体中に嘘という名の泥がこびりつく。決して洗って落とせるようなものではなかった。 「あらそう、それは邪魔して、ごめんねぇ。」 「じゃあ切るよ。それじゃ。」 最後に岐子は何か言いかけたものの、俺は気に留めることなく電話を切った。いつの間にかタバコのほとんどを灰が占め、先端が重力に負けて落ちていく。大きくため息をついて最後の一口を吸い込み、何かから逃げるようにベンチから立ち上がった。 日の目を見ることはないであろう原稿などここに捨ててしまおう、そう思ったがどうも手放せず、俺は新たに付着した泥を振り払うように鞄を手に取った。
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