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あれからカフェ、商業施設などを回り、駅の近くにぽつんと佇む居酒屋で安酒を引っ掛けた俺はようやく電車に乗り込んだ。既に時刻は23時を回っている。がらんとした車内には規定を大幅に超えて働いたサラリーマンが点々としているだけだった。座席の端でぼーっと上を見る。細長い液晶には練馬駅への到着を知らせるアナウンスが流れていた。
前の座席に座るサラリーマンは足を開いて天井を仰ぎ、大きな口を開けている。どこか間抜けに見えるものの、今の自分よりはまともな生活を送っているのだろう。アルコールを取り込んでも何故か上機嫌になれなかった俺は、鞄をぎゅっと抱きしめて目を瞑った。
何かいいネタは浮かばないものか、そう考えながら。
ゆっくりと目を開ける。目の前でぐっすりと眠っていたサラリーマンが消えており、俺は辺りを見渡した。
誰も乗っていない車内は世界から隔絶されたような虚しさがあった。ただ線路に沿って走っていくだけの長い鉄の箱。その中で揺られながら、いつしか漫画家への第一歩を夢見たアパートへ向かう。座り直してぐっと体を伸ばし、今日何度目かも分からないため息をついた。
『えー、次は間駅。間駅。お出口は、ああ、あいうう、え』
ノイズ混じりの車内アナウンスが鳴る。俺は少ししてからその違和感に気が付いた。
西武池袋線にそのような駅は無い。
「間、駅…?」
思わずそう呟いても辺りには誰もいない。たった一度のアナウンスを残して長い鉄の箱は依然として揺れている。やがてもう一つの違和感に気が付いた。
いくら夜が更けているとはいえ、車窓には池袋の明かりが含まれている。しかし今目の前にある窓はまるで外から黒い画用紙を貼られたように、一切の光が無くなっていた。
まるでこの状況が理解できないまま、電車は徐々にスピードを落としていく。車窓に映り出した景色は見た事もない駅のホームだった。
電車は止まり、扉が開く。7月末だというのに外から滑り込んできたのは冷たい風だった。
「何だこれ、夢?」
携帯を抜き、画面を表示させる。時刻は23時半。寝過ごしてしまって埼玉県の鉄道と連携したのだろうか。検索エンジンを立ち上げて間駅を検索しようとしたが、ようやく圏外であることに気が付いた。
その時にふと過ぎったのは、ある都市伝説だった。
インターネットの掲示板上に突如舞い降りた妙な駅の話。田舎町のような駅からは山が見え、存在しないはずの無人駅に降りた女性は、遠くから聞こえる祭り囃子を背に線路を歩いて、その後書き込みが途絶えたという流れだったはずだ。
ただあの話は信憑性のない作り話だ。現にTwitter上でも似たような事例が取り沙汰されたが、投稿された写真から実在する駅だと、特定班が推理している。俺は画面の右下にあるカメラのアイコンをタップした。
しかし、いくら押してもカメラは起動しない。
俺は耐え切れなくなって、荷物を持って駅のホームに降り立った。
張り詰める静寂は一切の物音を許さない。どこからともなく吹く風は異様に冷たく、ハーフパンツの隙間から入り込んで、じっとりと肌を撫でた。
不安に塗れる中で俺は勝利を確信していた。
これが仮に夢であっても、このような体験は二度とない。ならこの実体験を漫画のネタにすればいいじゃないか。ホラー漫画の経験はないものの、淡々と事実を描いた最後に、これは全て作者の実体験だと明かせば、飛ぶように売れるかもしれない。
携帯のメモに書き記そうとしたが、電池の減りが怖い。鞄からノートとペンを取り出す。俺は辺りの光景、現在置かれている状況を全て書き記した。
『・西武池袋線、練馬駅のアナウンスを聞いて眠ってしまった後に、妙な駅にたどりついた。名前は間駅。
・乗客は誰もいない。電車の扉は開いたまま。
・辺りは真っ暗で、寒い。駅のホームは古びている。
・写真を撮ろうにもカメラが起動しない。』
情報を書きながら俺はふと気になったことがあった。運転手は何をしているのだろうか。
じー、と音を立てて豆電球がホームの一部分を照らしている。そこに他の情報はない。そのまま電車の先頭まで行き、運転席を覗き込んだ。
「まぁ、いねぇよな…。」
狭い運転席には誰もいなかった。
ここは異世界なのだろうか。闇で塗り潰されたような辺りを見回す。特に祭り囃子などの音も聞こえない。徐々にこの異様な空間が退屈に思えてきた。せめて人外の何かしらが登場すればもっと良いネタになったというのに。
ホームは短かった。コンクリートで出来た在り来たりな田舎の駅。俺はその途中で足を止めた。
改札があった。当然ICカードを翳すような、ハイテクなものではない。どこか冷たそうな箱。いたずらに塗り潰されたような薄暗い空間の中で、それはぼんやりと浮かび上がっている。問題はその向こうだった。
本当に何も見えないのだ。アイマスクをしているように、改札の向こうは黒で染まっている。
どくどくと妙な音が聞こえる。それが自分の鼓動であることに、数分ほど立ち尽くしてからようやく気が付いた。
ごくりと唾を飲む。掌に汗が滲んでいる。ノートを鞄の中に仕舞ってからゆっくりと歩き出す。打ちっ放しのコンクリートが剥き出しになっており、余計に辺りは冷えている。
それでも好奇心は止められなかった。
切符を滑り込ませる箱の間を抜けて、黒い空間に飛び込んだ。
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